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藤原教長 ふじわらの のりなが

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美術人名辞典の解説

藤原教長

平安後期の公卿・歌人。天仁2年(1109)生。藤原忠教の次男。母は源俊明の娘。幼名は文殊、崇徳天皇のとき蔵人頭・参議となり、譲位後正三位に叙せられる。保元の乱で随従し、出家して観蓮と号す。のち高野山に隠棲した。和歌・書に優れた。家集『貧道集』、著に『古今集註』『才葉抄』等。治承4年(1180)歿、72才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原教長 ふじわらの-のりなが

1109-1180 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
天仁(てんにん)2年生まれ。藤原忠教の次男。母は源俊明の娘。永治(えいじ)元年(1141)参議となり,正三位にいたる。崇徳(すとく)上皇の近臣。保元(ほうげん)の乱により常陸(ひたち)(茨城県)浮島に流され,のち高野山にはいる。書の口伝書「才葉抄」があり,歌は「詞花和歌集」以下の勅撰集に37首はいっている。治承(じしょう)4年死去。72歳。家集に「貧道集」,注釈書に「古今集註」。
【格言など】行成の手跡は筆に任せて書(かか)れたり(「才葉抄」)

出典|講談社
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらののりなが【藤原教長】

1109(天仁2)‐?
平安後期の公卿。摂政師実の孫で,大納言忠教の次男。母は大納言源俊明の女。上流貴族に生まれて,10歳で童殿上を許されてから,侍従,左近衛少将,蔵人,右近衛中将,蔵人頭を経て,1141年(永治1)参議に昇ったが,56年(保元1)参議を辞して左京大夫に移った。この間,蔵人,蔵人頭として崇徳天皇に近仕し,譲位後も数少ない近臣として上皇に仕えたが,保元の乱により常陸国に流され,出家して観蓮と号した。62年(応保2)京都に召し返され,治承年間(1177‐81)高野山にいたことは判明しているが,没年は不詳。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原教長
ふじわらののりなが
(1109―?)

平安末期の歌人、能書家。父は正二位大納言藤原忠教(ただのり)、母は源俊明(としあきら)の女(むすめ)。正三位参議に至る。崇徳(すとく)院近臣歌人として『久安(きゅうあん)百首』などに加わったが、保元(ほうげん)の乱後常陸(ひたち)国(茨城県)に流され、出家して観蓮(かんれん)と号した。1162年(応保2)赦(ゆる)されて帰京、のち高野に隠棲(いんせい)したが、和歌活動は続け、77年(治承1)守覚法親王(しゅかくほっしんのう)に『古今集』を講述、『古今集註(ちゅう)』を著した。翌年3月15日「別雷(わけいかずち)社歌合」への出詠を最後として80年(治承4)までに没。歌風は素直だが味わいが深い。家集に『貧道(ひんどう)集』、撰集(せんしゅう)に『拾遺(しゅうい)古今』(散逸)があるほか、能書家として今城切(いまきぎれ)『古今集』、二荒山(ふたらさん)本『後撰(ごせん)集』など真跡を存し、また、入木道(じゅぼくどう)の書『才葉(さいよう)抄』がある。[川上新一郎]
 岩たたく谷の水のみおとづれて夏にしられぬみやまべの里
『小松茂美著『後撰和歌集 校本と研究』(1961・誠美書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の藤原教長の言及

【古今和歌集】より

…これらは実作者の参考に供する目的での解説である。注釈書は藤原教長の《古今集註》が最も古く,治承(1177‐81)ころの作である。ついで顕昭の《古今集註》がある。…

※「藤原教長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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