平安初期の女御。良房の長女。文徳天皇に入内して,惟仁親王(清和天皇),儀子内親王を生んだ。858年(天安2)清和天皇即位とともに皇太夫人,864年(貞観6)皇太后,さらに882年(元慶6)太皇太后となった。文徳,清和,陽成,光孝,宇多,醍醐の6代50年にわたり,〈染殿(そめどの)の后〉と呼ばれて後宮に重きをなした。良房が〈年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし〉と詠じて,明子を桜花にたとえた話は名高い。〈染殿の后〉の称も良房の邸〈染殿〉(正親町小路の北,京極大路の西にあった)によっている。また在世中,仏道に志篤く,京,奈良の40ヵ寺に盛大な転読供養を営んだり,貧民を救恤したりした。《今昔物語集》には,美麗な染殿の后に迷った聖人が天狗となって后を悩ませる話がある。
執筆者:今井 源衛
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(谷口美樹)
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828~900.5.23
文徳天皇の女御(にょうご)。染殿后(そめどののきさき)と称された。父は藤原良房。皇太子道康親王(文徳天皇)の妃となり,850年(嘉祥3)惟仁(これひと)親王(清和天皇)を生んだ。858年(天安2)の清和天皇即位にともなって皇太夫人となり,864年(貞観6)の元服まで天皇と同居して後見した。同年皇太后,882年(元慶6)太皇太后となる。物の怪がちであったという。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…平安初期の女御。良房の長女。文徳天皇に入内して,惟仁親王(清和天皇),儀子内親王を生んだ。858年(天安2)清和天皇即位とともに皇太夫人,864年(貞観6)皇太后,さらに882年(元慶6)太皇太后となった。文徳,清和,陽成,光孝,宇多,醍醐の6代50年にわたり,〈染殿(そめどの)の后〉と呼ばれて後宮に重きをなした。良房が〈年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし〉と詠じて,明子を桜花にたとえた話は名高い。…
…平安中期の公卿。西宮左大臣と称せられる。醍醐天皇皇子,母源唱女更衣周子。920年(延喜20)源氏賜姓。929年(延長7)元服,翌年従四位上で出身。939年(天慶2)参議となり,累進して冷泉天皇の968年(安和1)左大臣に昇ったが,翌年安和(あんな)の変により失脚,大宰員外帥として配流された。右京四条の彼の広大な西宮第は配流後炎上するが,この邸のことは慶滋保胤の《池亭記》にも記されている。972年(天禄3)帰京,封戸も賜ったが政界には復帰しなかった。…
※「藤原明子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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