藤田亮策(読み)ふじたりょうさく

改訂新版 世界大百科事典 「藤田亮策」の意味・わかりやすい解説

藤田亮策 (ふじたりょうさく)
生没年:1892-1960(明治25-昭和35)

考古学者。新潟県古志郡上北谷村(現,見附市)に生まれる。1915年東京帝国大学医科大学に入学,強度の近視のため同年10月文科大学史学科に転じた。卒業後,文部省維新史料編纂事務局,宮内省諸陵部考証課を経て,22年朝鮮総督府に移り,古蹟調査の任にあたる。23年には総督府博物館主任となり,26年京城帝国大学教授となった後もこの任にあって,朝鮮の古蹟調査,保存の体系を確立した。第2次世界大戦の終結とともに帰国し,49年東京美術学校教授に任ぜられたほか,東北大学,金沢大学,慶応義塾大学などで考古学を講じ,多くの後進を育てた。59年奈良国立文化財研究所長となり,平城宮址の本格的発掘調査開始時に指揮をとった。戦後,日本考古学協会の設立とともに委員長となり,1950年以来,文化財専門審議会専門委員として各地の遺跡の調査保存に活躍,なかでも全国遺跡台帳の完備を行政の基本として指導した功績は大きい。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤田亮策」の意味・わかりやすい解説

藤田亮策
ふじたりょうさく

[生]1892.8.25. 新潟
[没]1960.12.12. 東京
日本文化史,考古学者。 1918年東京帝国大学史学科を卒業し,京城帝国大学,東京芸術大学の教授を経て,1959年奈良国立文化財研究所所長となる。朝鮮において雄基松坪洞貝塚,大邱大鳳町支石墓などの調査を行ない,また文化財の保存事業にも従事した。第2次世界大戦後の 1948年日本考古学協会の初代委員長として学会活動に従事し,硬玉出土遺跡,平城宮址の調査を行なった。主著『朝鮮考古学研究』 (1948) ,『朝鮮学論考』 (1958) などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤田亮策」の解説

藤田亮策 ふじた-りょうさく

1892-1960 大正-昭和時代の考古学者,朝鮮史学者。
明治25年8月25日生まれ。朝鮮総督府修史官,同博物館長をへて,昭和7年京城帝大教授。戦後は東京芸大教授,奈良国立文化財研究所長となる。日本考古学協会初代委員長。昭和35年12月12日死去。68歳。新潟県出身。東京帝大卒。著作に「朝鮮考古学研究」など。

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