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藤間 紫 フジマ ムラサキ

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新撰 芸能人物事典 明治~平成の解説

藤間 紫
フジマ ムラサキ


職業
日本舞踊家 女優

肩書
紫派藤間流家元

本名
喜熨斗 綾子(キノシ アヤコ)

旧名・旧姓
河野,藤間

生年月日
大正12年 5月24日

出生地
東京市 本郷区根津宮永町(東京都文京区)

学歴
相愛高女〔昭和16年〕卒

経歴
日本医科大学創設者で、6代目尾上菊五郎主治医でもあった河野勝斎の長女として生まれ、五人の弟、一人の妹の他、養女の姉と妹が一人いる。三弟は藤間流分家家元の3代目藤間大助、実妹は世家真流家元の世家真ますみ、末弟は歌舞伎俳優の6代目中村東蔵。俳優の金子信雄は誠之小学校同級生で、幼なじみ。7代目松本幸四郎の紹介で6歳から藤間章吉について日本舞踊を始め、“天才少女”と呼ばれる。昭和10年12歳の時に藤間流6代目宗家・藤間勘十郎の踊りを見て憧れ、川尻清譚の紹介で勘十郎門下に転じた。昭和16年名取となり、藤間紫を名乗る。同年より東京音楽学校(東京芸術大学)に講師として出講、19年24歳年上の宗家と結婚。20年3月東京大空襲を逃げ延び、新潟県に疎開。8月慰問先の新発田の連隊で敗戦を知った。戦後、長谷川一夫の誘いにより小夜福子の代役で初めて女優として舞台に立ち、また、好評を博した初のリサイタル・舞踊劇「淀君」(23年)を観た辰巳柳太郎口利きから、新国劇野口英世」に出演。24年には島耕二監督「グッドバイ」で映画デビュー。以来、映画「最後に笑う男」「三等重役」「亭主の祭典」「極道の妻たち」、テレビ台所太平記」、舞台「大菩薩峠」「濹東綺譚」「父の詫び状」「西太后」「華岡青洲の妻」など多くの作品に出演し、女優業で得た収入で藤間流の復興に尽力し、宗家を支えた。一方で、新劇の村山知義に指導を受け、主宰する藤紫会や火の木の会の公演では村山の脚本による作品なども上演。夫との間には俳優の藤間文彦、7代目藤間勘十郎(3代目藤間勘祖)の一男一女をもうけたが、60年夫との離婚訴訟をきっかけに離婚・財産問題でもめ、”藤間流スキャンダル”としてマスコミを賑わせた。62年宗家藤間流を離れ、紫派藤間流を旗揚げして独立。この間、28歳の時に入門してきた小学6年の3代目市川猿之助と出会い、1960年代からその公演活動を支えた。長く公私ともに実質的なパートナーとして生活をともにし、平成12年16歳下の猿之助と正式に結婚。一連の「スーパー歌舞伎」のプロデューサーも務め、猿之助が病気で倒れると一門の指導にも尽力した。21年2月国立劇場「日本舞踊協会公演」での「道行旅路の嫁入」の戸無瀬が最後の舞台となった。自伝に「修羅のはざまで」がある。

受賞
勲四等宝冠章〔平成6年〕 菊田一夫演劇賞(第5回 昭54年度)「男の紋章」「おさん茂兵衛」,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔昭和56年〕,ボローニャ市文化功労章〔昭和58年〕,ボローニャ市名誉市民〔昭和60年〕,菊田一夫演劇賞(大賞 第17回 平3年度),松尾芸能賞(優秀賞 第13回)〔平成4年〕,読売演劇大賞(女優賞 第1回 平5年度)「父の詫び状」「濹東綺譚」

没年月日
平成21年 3月27日 (2009年)

家族
夫=市川 猿之助(3代目),長男=藤間 文彦(俳優),長女=藤間 勘祖(3代目),父=河野 勝斎(日本医科大学創設者),弟=藤間 大助(3代目),中村 東蔵(6代目),妹=世家真 ますみ,孫=藤間 勘十郎(8代目),藤間 貴彦(タレント)

伝記
修羅のはざまで 藤間 紫 著(発行元 婦人画報社 ’92発行)

出典|日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)
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