内科学 第10版 「虚血性心疾患の疫学」の解説
虚血性心疾患の疫学(虚血性心疾患)
わが国の循環器疾患の特徴は,欧米先進国に比して脳卒中が多く,虚血性心疾患が少ないことであった.この傾向は脳卒中死亡率,発症率が大きく低下した現在においても基本的に変わりはない.
a.虚血性心疾患死亡率の国際比較
図5-7-37はWHOの統計による2004年における虚血性心疾患の性・年齢調整死亡率の国際比較の成績である.わが国を含め,韓国,中国などの東アジア諸国の死亡率が低く,西欧の先進国では,地中海沿岸諸国に属するスペイン,フランスも低い.
死亡率は,罹患率とその疾患の致命率とで決まるが,医療水準の高い北欧を含む欧米の年齢調整虚血性心疾患死亡率は高く,医療水準とは異なった要因が関係していることがわかる.
b.虚血性心疾患罹患率(発症率)の国際比較
虚血性心疾患罹患率の国際比較を,急性心筋梗塞罹患率に限定して国際比較することのできる成績には,1990年頃の調査成績である世界保健機関(WHO)の国際共同研究Monitoring of Trend and Determinants in Cardiovascular Disease(MONICA)に日本の6集団の罹患率を加えたものがある(図5-7-38).わが国の調査集団は6集団であるが,男女ともMONICAの集団と比較して最も低い位置にある.日本の集団についで低いのが,中国北京の集団,そして,地中海沿岸諸国の集団である.先進国に比して,わが国において心筋梗塞罹患率が低い傾向は,2000年以降も基本的には維持されており,大企業の勤務者を調査した成績においても,地域住民を長年観察している久山町研究においても認められている.
c.虚血性心疾患の危険因子
虚血性心疾患の発症要因としての主たる危険因子は,洋の東西を問わず,高血圧,高コレステロール血症(あるいは,高LDL血症),喫煙,耐糖能異常・糖尿病などである.わが国の虚血性心疾患の死亡率,発症率は依然,欧米先進国に比して低いが,その発症危険因子は欧米先進国と異なるものではない.日本人であっても,上記の危険因子があれば,虚血性心疾患発症危険度は高くなる.また,その危険因子が重なると発症危険度は危険度の乗数として増加する.たとえば,高血圧は非高血圧者に比して約2倍の危険度,同様に,喫煙が約2倍,糖尿病が約2倍とすると,高血圧があり,喫煙し,糖尿病があるとその危険度は約8倍となる.メタボリック症候群もこれらの危険因子の軽度なものも含め重なった状態であり,危険度は2倍以上となる.
図5-7-39は国民を代表する集団における血清総コレステロール値と虚血性心疾患死亡率との正の関係を示した疫学コホート研究の結果である.虚血性心疾患の少ないわが国においても,血清総コレステロール値が高い人は,心筋梗塞を起こして死亡する危険度が高いことを示している.同様に,喫煙量が多いほど心筋梗塞に罹患しやすく,それによる死亡危険度が高い.
(2)虚血性心疾患の性差
女性は男性に比して虚血性心疾患に罹りにくく,図5-7-38に示したMONICAの男女の急性心筋梗塞罹患率の差は大きく,男女比は2倍から5倍程度ある.女性が男性に比して心筋梗塞に罹りにくいことは,世界に共通した現象である.
わが国の男女差の要因の多くは,喫煙率と高血圧の有病率の相違によって説明できる.それに加えて,女性の高コレステロール血症の有病率が増加するのは,閉経後であり,これも女性の心筋梗塞が少ない理由の1つと考えられている.わが国では,男性の喫煙率が女性に比して3倍以上高く,男性の喫煙率が女性並みに低下すれば,その差は大きく縮小するであろう.
(3)わが国の虚血性心疾患死亡率・罹患率が低い理由
集団の虚血性心疾患罹患率や死亡率の相違は,その集団の血清総コレステロール値の値と強い関係のあることが,1950年代末頃から開始された世界7カ国共同研究によって明らかにされている.その後の多く疫学コホート研究の成果も加えて総合すると,わが国に虚血性心疾患が少なかった理由は,ながらく国民の血清総コレステロール値が低かったことにより説明できる.世界7カ国共同研究に参加した九州の住民では,中年期男性の血清総コレステロール値の平均が160 mg/dL程度であったとき,最も心筋梗塞罹患率の高かったフィンランドの住民では260 mg/dL程度あった.日本人の血清総コレステロール値は,欧米先進国の住民よりも遅れて上昇し,現在に至っている.
図5-7-40は血清総コレステロール値の年齢別の経年変化を米国民男性と日本人男性とを比較したものである.米国民が過去から現在にわたって血清総コレステロール値が低下しているのに対して,わが国では,1980年から1990年にかけて上昇し,さらに,2010年における調査では,中年期男性世代の血清総コレステロール値は210 mg/dLをこえ,米国民のそれと相違がない状態にまでなった.しかし,高齢者では依然,日本人の方が低い.
(4)今後の動向
虚血性心疾患の罹患率(発症率)の動向は,その危険因子の動向に左右される.また,その死亡率抑制は,救急搬送システムの改善を含む治療による致命率の低下や心筋梗塞に至る前の予防的な冠動脈病変への治療によっても左右される.
虚血性心疾患の危険因子の動向をみると,高血圧有病者率が低下し,喫煙率も大きく低下した.一方,国民の血清総コレステロール値は上昇したが,心筋梗塞を多発する高齢者の世代では,増加したとはいえ,依然,欧米先進国の住民よりも低い.高血圧,喫煙,高コレステロール血症の3つのおもな危険因子のうち,血清総コレステロール値は増加したが,前者2つは大きく低下し,結果として虚血性心疾患の増加にはつながっていないと解釈できる. わが国の虚血性心疾患死亡率は,年齢調整したものでは,その増加は観察されていない.しかし,わが国の人口動態統計においても,東京,大阪などの大都会では,その他の地域とは異なり,若い世代での増加傾向が疑われている.また,経年的な傾向をモニタリングしている疫学研究において,心筋梗塞罹患率の増加を指摘する報告もあり,今後の注意深い観察が必要である.[上島弘嗣]
■文献
上島弘嗣:わが国の循環器疾患とその危険因子の動向. NIPPON DATAからみた循環器疾患のエビデンス(上島弘嗣編著),pp3-13,日本医事新報社,東京,2008.
World Health Organization: The global burden of disease: 2004 update. Geneva, WHO, 2008. Available at www.who.int/evidence/bod
出典 内科学 第10版内科学 第10版について 情報