蛭子町(読み)えびすちよう

日本歴史地名大系 「蛭子町」の解説

蛭子町
えびすちよう

下京区鍵屋町通新町東入新町通五条下ル二丁目

南北に通る新町通(旧町尻小路)を挟む両側町。町の北側は現五条通に面し、町内を東西に、北から楊梅ようばい通・鍵屋町かぎやちよう通・的場まとば通が通る。

平安京の条坊では、左京六条三坊三保一一町西南隅、二保三町東南隅、及び四町東側と五町の地。平安時代、当町の西北部は千種殿ちぐさどの、東北部は池亭ちてい、東南部は源顕房邸のそれぞれ一部であった(拾芥抄)。「明月記」建仁三年(一二〇三)一二月五日条には、「夜半許南有火、楊梅南、室町西一町焼」とあるが、この時焼亡した一町は、当町域。このことから、当時既にこの付近には人家のあったことが推察される。

寛永一八年(一六四一)島原が成立するまでの間、六条柳町あるいは六条三筋町みすじまちと称する遊郭であった。

蛭子町
えびすちよう

[現在地名]浜田市蛭子町・栄町さかえまち

浜田八町の一で、町並しん町の西部から南西に折れ、さらに折れて西方に延びる。東は日用ひよう(紺屋町のうち)、西はかどつじ町に続き、南は原井はらい村。町名は小野市おののいち(現大辻町)にあった蛭子堂を築城時に当地を城下町の中心とするため移転したのに由来すると伝える(浜田町史)。新町とともに浜田八町の中心街をなし、東西七三間・道幅二間余の道を挟み、町大年寄・御用達を勤めたこともある和久屋(俵家)・茶屋(岩間家)などの有力商人を中心とした町屋敷が立並んだ。

蛭子町
えびすちよう

[現在地名]東山区蛭子町〈北組・南組〉

袋町ふくろまち(大黒町通)に位置し、北は北棟梁きたとうりよう町。現在は北・南の二組に分れるが、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」には分れておらず、「京都府地誌」では蛭子町北組・同二組となっているから、分町は幕末ないし明治初期と思われる。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「其(袋町)南夷町 此町西側に称名寺といふ浄土宗有。又南方専定寺といへる浄土宗有。(中略)右二町(袋町・蛭子町)を俗に骨屋町と云。此南は大仏正面通りにて耳塚にて行当る。是より南、耳塚通といふ」と記す。なお「京都府地誌」は蛭子町及び五条橋東ごじようはしひがし二町目を「維新前、骨屋町ト云」とする。

蛭子町
えびすまち

[現在地名]中区松原二―三丁目

旅籠はたご町の南、前塚まえづか町の西、下茶屋しもちやや町の北に位置。東西二筋の町屋。東蛭子ひがしえびす町は延広えんこう寺の西の縦町で「尾張志」によれば宝暦五年(一七五五)、「連城亭随筆」によれば同七年町屋となる。町名は、この地に摂津西宮にしのみや恵比須の代官が住んだことに由来するという。

蛭子町
えびすちよう

上京区猪熊通出水上ル

南北に通る猪熊いのくま(旧猪隈小路)の両側町で、町の北寄りを東西に下長者町しもちようじやまち(旧鷹司小路)が通り、南は出水でみず(旧近衛大路)

平安京の条坊では左京一条二坊一保八町の南西から同七町の西、同二町の東、同一町の東南隅にわたる地。平安中期以降は鷹司小路猪隈小路たかつかさこうじいのくまこうじ南北の地。平安時代は官衙町の「大舎人」(「拾芥抄」では大舎人町)の南西から「使丁」の中央以西、「左衛門府」の東、「織部町」の南東にわたる跡地(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「ゑびす丁」とみえ、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」はなぜか町の東側を「北夷町」、西側を「南夷町」の名で二町に分ける。

蛭子町
えびすちよう

上京区上立売通浄福寺西入

東西に通る上立売かみたちうり通を挟む両側町。東側は浄福寺じようふくじ通。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「ゑびす丁」とみえる。以後「夷」の字を記す絵図(寛文二年新板平安城東西南北町並洛外之図・天保二年改正京町絵図細見大成)もあるが、変化はなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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