西ノ谷村
にしのたにむら
[現在地名]田辺市元町
田辺町の西方、南流する秋津川の下流大川(現会津川)の右岸から西方、芳養湾に至る地を占める。丘陵が多く、江川浦との間を熊野街道中辺路が通り、街道沿いから山際まで住家が立並ぶ。街道沿いには松並木が続き、出立松原の名で知られる。縄文―平安・鎌倉時代の遺跡が村域西部の海辺、天神山・立戸・古目良・五反田に散在する。中世は田辺庄に含まれていたと考えられる。村名は大自在天神社(現能満寺内天満神社)の大永六年(一五二六)の棟札に「西ノ谷村」とみえ、地名の由来を「続風土記」は田辺庄中の西にあたり、谷が多い地形から起こったものとしている。
天正一八年(一五九〇)杉若無心(のち越後守を名乗る)が芳養の泊山城より、当地上野山砦を改築して移った(万代記)ことにより、その山麓に小規模ながら城下町が形成された。慶長検地高目録にみえる「田辺町」がそれに該当し、「続風土記」によれば田辺町には尾ノ崎町・公文町・本町・江川町・片町・寺屋敷があったという。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)には「高三百六拾七石五斗四升九合 西谷・目良村、内百九拾七石四升九合 町江川并公文引」とみえる。
西ノ谷村
にしのやむら
[現在地名]新井市西野谷
重倉山の南東、粟立山の東山麓にあり、万内川と中野川により灌漑され、南は西ノ谷新田に接する。名立谷の飛山村(現西頸城郡名立町)から粟立山と大毛無山の間を抜け、当村を経て両善寺村へ至る道があり、西ノ谷本田には、かいと・きどさきなどの字地名が残る。正保国絵図に西谷村とあり、天和三年郷帳に西野谷村として高一七一石四斗余、うち山高二斗二升八合・漆高二升とある。元禄郷帳では西ノ谷村としてほぼ同高が記される。新井地方での薪炭は、西ノ谷が中心で多量に生産していた。元禄八年(一六九五)西ノ谷村庄屋弥右衛門は高田藩の役人と思われる村山善兵衛から炭三二俵の代金二分を前借し、大肝煎和田八郎右衛門が奥書しており(西野谷区長文書)、西ノ谷・西ノ谷新田は藩の木炭と割木を請負っていたと思われる。
西ノ谷村
にしのやむら
[現在地名]市原市西野谷
八幡村の南西、郡本村の北西に位置する。一ノ時志免・加茂久・於津保年久などの地名がある。元禄郷帳では西谷村として高六六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では西野谷村として高六六石で家数一〇、旗本井上領。
西ノ谷村
にしのやむら
[現在地名]騎西町西ノ谷
備前堀川を挟んで騎西町場の南、上崎村・下崎村の東に続く埋没台地の東端に位置する。田園簿によると田高・畑高ともに一〇二石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一九九石余、反別は田方・畑方とも一一町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに四七石余があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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