西代村(読み)にしだいむら

日本歴史地名大系 「西代村」の解説

西代村
にしだいむら

[現在地名]平田市西代町

平田村ぶん・同灘分なだぶんの南西、斐伊川左岸の平坦地に位置し、山地はまったくない。村域は東西一五町余・南北三町余で、村の南を東流する斐伊川沿いに細長く展開している。斐伊川(大川)は当村辺りでは「指渡し弐百八拾間」ほどで、「大川中簀子橋長弐百四拾間」(寛政四年「万差出帳」平田市立旧本陣記念館蔵)によって対岸の出雲郡上鹿塚かみしづか(現斐川町)と結ばれていた。北西は国富くんどみ村、南西は美談みだみ村。斐伊川堤防上を進む杵築道美談村から当村に入り(この間大土手往還ともいい、幅二間半)、当村で堤防上から離れて北東へ進路を変え、斐伊川旧河道の土手上を通り(古土手往還ともいう、幅二間)、平田町へ通じていた。ただし、斐伊川は近世前期には当村から下流で河道の分流・変動が激しく、道路もその影響を少なからず受けたものと思われる。正保国絵図でみると、のちの杵築道にあたる太線で描かれた道は当村を通っておらず、美談村でこの道から分岐して当村・上鹿塚村を経て出来洲できす村まで渡河せずに陸続きで東に進み宍道湖岸に至る道が細い線で描かれている。


西代村
にしだいむら

[現在地名]長田区西代通にしだいどおり一―四丁目・御屋敷通おやしきどおり一―六丁目・水笠通みずかさどおり一―六丁目・松野通まつのどおり一―四丁目・戸崎通とざきどおり一―三丁目・山下町やましたちよう一―四丁目・大谷町おおたにちよう一―三丁目・五位ごい池町いけちよう一―四丁目・平和台町へいわだいちよう一―三丁目・長尾町ながおちよう一―二丁目・高取山町たかとりさんちよう一―二丁目・高取山

池田いけだ村の西に位置する。六甲ろつこう山地西部にある高取山(三二〇・五メートル)の南斜面から山麓の段丘・沖積地を村域とし、村内を横断する山陽道北側に集落を形成。文亀元年(一五〇一)一一月四日の宝満寺領年貢米売券(藤田文書)から西代村内には二ヵ所に宝満ほうまん寺領計三反があったことがわかる。


西代村
にしだいむら

[現在地名]河内長野市西代町・にしき町・本多ほんだ町・さかえ

古野ふるの村の西に位置し、緩やかな起伏がある。長野ながの村境の七ッ辻ななつつじでは七本の道が会し、交通の要衝で、北西の台地上に西代藩陣屋があった。文禄検地の反別三三町八反余・分米四一九石余(中村宏家文書)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四一九石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳では四二四石余。


西代村
につしろむら

[現在地名]東村西代、千葉県佐原市笄島こうがいしま

横利根川沿岸の低地にあり、北は八筋川やすじがわ村・卜杭ぼつくい村。もと香取海かとりうみといわれた流海が陸化した低地。天正一九年(一五九一)山来五郎右衛門の開発と伝え、十六島じゆうろくしまの一で上新島かみしんしま六ヵ村のなかにあり、山来氏が代々名主を務めた(佐原市史)元禄郷帳には無高とあるが、天保郷帳では八五六石余に増加する。弘化二年(一八四五)の関東御取締役控帳(香取郡誌)によれば、天領で上之島かみのしま村外一二ヵ村組合に属し、村高八五六石余、家数一一二。


西代村
にしんだいむら

[現在地名]田原本町大字西代

唐古からこ村の西に所在慶長郷帳の村高三一七・八七石で幕府領(代官北見五郎左衛門)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、のち二割半無地高増政策で村高三九七・三三八石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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