日本歴史地名大系 「西尾城跡」の解説 西尾城跡にしおじようあと 愛知県:西尾市西尾城下西尾城跡[現在地名]西尾市錦城町西尾城は、矢作古(やはぎふる)川の流れ、南の海、東の連山とに囲まれた要害の地で、北から南に突出した標高約一〇メートル前後の碧海(へきかい)台地の崖端と、それに続く低湿地を利用している。「此城ハ四方平地ナレトモ、西南ハ沼田ニシテ泥深シ、人馬ヲ渡ヘキ術ナシ、神池タルニ因テ、広々トシテ他色ヲ雑ス」と「三州幡豆郡西尾城主由来書」にある。多くの異名があり、鶴城・鶴ヶ城・西丘城・錦丘城などと記す。西尾城の前身は西条(さいじよう)城である。承久の乱の功により、三河守護職に任ぜられた足利義氏が、吉良(きら)庄に来て、台地の南端に城を築き西条城と命名(参陽吉良庄西尾城天神宮神明宮縁起)、本丸の東北隅に神社を建て、八幡宮を遷座、本城鎮護の神とした。御剣(みつるぎ)の宮といい、ときとして御剣の霊の現れる伝説を伝えている。承久三年(一二二一)足利義氏は、さらに幡豆(はず)山地の一角に東条(とうじよう)城を築き、三男義綱を住まわせた。 西尾城跡にしおじようあと 愛知県:小牧市大草村西尾城跡[現在地名]小牧市大草字大洞(おおぼら)の標高八〇メートルの小丘にあり、大草(おおくさ)城・お城山ともよんでいる。文安年間(一四四四―四九)に土豪西尾道永が築城した。道永は岩倉の織田伊勢守信安に従ったが、その後、岩倉織田氏の家督争いからこの地を離れ、岐阜の斎藤道三を頼ったといわれ、城は天文一七年(一五四八)頃に廃城になったと思われる。 西尾城跡にしおじようあと 佐賀県:三養基郡北茂安町西尾村西尾城跡[現在地名]北茂安町大字東尾字西尾中世の平城の跡。西尾村全域はかつては西尾城の内で、二重の塹濠をめぐらし、間道は縦横に通じていたという。八幡神社のある高台がその本丸で、東に城主の館があったので「たち」の名や「たちぼり」の名が言い伝えられている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by