大草村(読み)おおぐさむら

日本歴史地名大系 「大草村」の解説

大草村
おおぐさむら

[現在地名]大和町大草

上徳良かみとくら村の南に位置し、村内を南東から北西へ流れる椋梨むくなし川支流の大草川とその支流域に展開する農村。安芸国豊田郡に属した。大草川上流の北岸山腹に金剛石こんごういし古墳がある。中世は沼田新ぬたしん庄に属し、沼田庄の本庄から新庄への交通上の要地にあたっていた。仁治四年(一二四三)二月日付の安芸沼田新庄方正検注目録写(小早川家文書)に、大草三七町一反三三〇歩のうち、除田四町二反六〇歩・定田三二町(九)反二七〇歩、所当米五七石八斗九升八合とあり、斗代は一斗五升代が最も多く、地頭得分は地頭給三反一二〇歩と所当米地頭分二二石一斗三升五合。ほかに預所給六反一八〇歩・公文給五反がある。除田のうちに「津久論田一町六反小」とあるのは、村の北部の、東西に延びる津久つく谷が豊田郡と世羅郡の郡境にあたり、帰属が争われていたと考えられる。


大草村
おおくさむら

[現在地名]幸田町大草

村域の東南は山林で、面積も村域の半分が山林である。東は桑谷くわがい(現岡崎市)と山頂で接し、西は横落よこおち村・鷲田わしだ村・北鷲田きたわしだ村・高力こうりき村の四ヵ村と入会して接する。南は山林と耕地でおぎ村、北は久保田くぼた村に接し、わずか坂崎さかざき村との接点がある。村内を舞木まいぎ(現岡崎市)で東海道に接続する山中やまなか道が貫いていた。また中世末期の深溝ふこうず城主松平家忠の「家忠日記」に、深溝から坂崎を通り岡崎城に至る記事が散見され、大草村内を通過する道があった。

北部には円墳横穴式の後期古墳が八基あり、須恵器などを出土した。平安期とされている赤井あかい経塚では和鏡・銅鏡が出土している。北部の字山寺やまでらにある天台宗浄土じようど南城なんじよう坊や寛治三年(一〇八九)奥宮本殿建立(参河国額田郡神社誌)と伝えられる大草神社の前身であるすぎ大明神の創建も平安期とされている。赤井遺跡から鎌倉期の古瀬戸壺や五輪塔が発見され、会下えげ古窯・瓶割かめわり古窯からは鎌倉期から室町期にかけての山茶碗が出土した。


大草村
おおくさむら

[現在地名]中川村大字大草・四徳しとく飯島いいじま町大字日曾利ひつそり

北は吉瀬きせ村・高見たかみ(以上現駒ヶ根市)に接し、西は天竜川を隔てて北より石曾根いしぞね村・本郷ほんごう(以上現飯島町)片桐かたぎり村に相対し、東は四徳の谷の東の山を境として鹿塩かしお村(現下伊那郡大鹿おおしか村)に接し、南は小渋こしぶ川を境として河野こうの村(現下伊那郡松川まつかわ町)に相対するが、天竜川畔の葛島かつらしまは対岸の片桐村に属する。

大草の初見は諏訪御符礼之古書(諏訪大社上社文書)の文正元年(一四六六)五月五日で、諏訪社上社の翌年五月会の頭役をあてられ、諏訪社上社に勤仕している。

天正一九年(一五九一)一一月、飯田城主毛利秀頼は大草のうち諸村の検地を行っているが、大草之内御検地帳(高坂文書)によるとその村名は日曾利・飯沼いいぬま丸尾まるお谷田やた・四徳・桑原くわばら鹿養かようの七ヵ村であるが、同年の信州伊奈青表紙之縄帳には、大河原おおかわら(現下伊那郡大鹿村)や鹿塩もともに含まれている。


大草村
おおくさむら

[現在地名]多良見町東園名ひがしぞのみよう西園名にしぞのみよう野副名のぞえみよう元釜名もとがまみよう

喜々津ききつ村の北西に位置し、北部は海に臨む。伊木力いきりき川が流れる。南東に虚空蔵こくうぞう山、南に鎌倉かまくら山がある。江戸時代は肥前佐賀藩親類同格の諫早家領で、諫早いさはや郷に属する。慶長国絵図に「津水ノ内 大草」と記される。正保国絵図に大草村とあり、高八〇石余。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)にも大草村とあり、元禄国絵図では高八〇石余。元禄一二年(一六九九)の鍋島綱茂領中配分石高帳(長崎図書館蔵)では地米高七五石余(大小配分石高帳でも同様)。寛延三年(一七五〇)上知されて佐賀本藩領となった一四ヵ村の一つで、同年の本地分は田一五町三反余・畦二反余で地米六七石、山林三三町余で銀二一三匁余、畑七町余・茶一畝余で地米一一石余、麦地六斗余、新地分は作新田九反余・新田一町余で畑一一町余・茶六歩余で地米一二石余(諫早日記)


大草村
おおくさむら

[現在地名]益田市大草町

津田つだ川上流域に位置し、東は山折やまおり村、南は乙子おとこ村、西は遠田とおだ村。地名は古戦場の草原に由来するという(石見八重葎)。明徳五年(一三九四)三月二八日の大内氏奉行人連署奉書(益田家文書)に「益田庄内大草村」とみえる。文禄四年(一五九五)一二月二七日の益田又兵衛当知行付立(同文書)に「北仙道郷大草・山折・赤狩 一、屋敷数四十九カ所」とある。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高三一二石余、寛永一四年(一六三七)の検地高五二五石余(万手鑑)。天保郷帳では当村・上種かみだね村・下種村・千振ちぶり村・赤雁あかがり村・山折やまおり村を合せ、北仙道きたせんどう村として高三千八四石余とある。


大草村
おおくさむら

[現在地名]島田市大草

野田のだ村の北、東光寺とうこうじ村の西、三方を山稜に囲まれ、中央を南流する大津谷おおつや川沿いに狭小な平地が開けている。貞治六年(一三六七)と推定される諸国檀那願文帳(熊野本宮大社文書)に「大津本庄大草」とあり、当地の住人「むまの二郎・大内四郎・まこ太郎・せいたん」の四人が紀州熊野本宮に参詣している。豊後国泉福せんぷく(現大分県国東町)の無著妙融法嗣大通融士は、当地に深泉しんせん(現天徳寺)を開き、応永一九年(一四一二)一一月一八日没したという(泉福源灯録)


大草村
おおくさむら

[現在地名]長久手町熊張くまはり

前熊まえぐま村の北にある。城下から四里、北には山口やまぐち川、南には香流かなれ川とその支流神明しんめい川が西に流れて、いずれも村境をなしている。北部は起伏の多い丘陵地で、水田は南部の川沿いに開け、谷あいには雨池が多い。集落は水害を避けて丘陵の南端に形成された(寛政村絵図)

貞観(八五九―八七七)の頃からあった権道ごんどう寺が焼失し、その諸仏は埋古うめりこという地に埋もれたが、香流川の氾濫で流れ出し、永見えいけん寺など三寺に祀られた、との伝説があるが、村の成立や村名の起源は明らかでない。


大草村
おおぐさむら

[現在地名]若葉区大草町おおくさちよう千城台南ちしろだいみなみ一―四丁目・千城台東ちしろだいひがし一―三丁目・千城台北ちしろだいきた二―三丁目

小倉おぐら村の南東方に位置し、村の南西部をみやこ川が流れる。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、坂月さかづき村と二村で五町の道普請を負担。寛文元年(一六六一)から佐倉藩領で、同四年の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に記載される。幕末まで同藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二三二石余。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によると年貢は免取法で、嘉永二年から三ヵ年定免、延宝六年(一六七八)・元禄一五年・寛保二年(一七四二)・享和二年(一八〇二)・文化二年(一八〇五)に新田畑が高入れされており、年貢合計は米一一一石余・永九貫七九六文余・鐚五貫三三七文余。


大草村
おおくさむら

[現在地名]知多市大草

伊勢湾に面し台地上にあり、海岸沿いに西浦にしうら街道が南北に走る。東は北粕谷きたかすや村に接する。村東の津島つしま神社の棟札に「長享二年三月 大日本国尾州智多郡大野庄大草郷」とあるのが初見。村東南には中世の大草城跡があり、一色氏、織田長益(有楽)が城主であった。

「寛文覚書」によれば、概高三五八石余、田七町一反一畝余・畑一九町六反四畝余、家数一三六、人数六三五。元和六年(一六二〇)には竹腰山城守、その後、山澄淡路守の給知となり、山澄氏は寛文六年(一六六六)大草城跡に隣接して屋敷を建てた。


大草村
おおくさむら

[現在地名]松江市大草町

山代やましろ村の南に位置し、西は大庭おおば村、南は日吉ひよし(現八雲村)。意宇川は村内では大草川ともよばれ、上流の日吉村を経て当村内で東へ大きく蛇行し、東の春日かすが(現東出雲町)へ流れる。意宇平野の南端に位置し、意宇川北岸には出雲国府跡があって古代出雲の中心地であった。中世は大草郷に含まれていたとみられ、出雲府中いずもふちゆうの中心をなしていた。村の西側を意宇川に沿って広瀬ひろせ(現広瀬町)への往還が通る。


大草村
おおくさむら

[現在地名]小牧市大草

北は明知あけち(現春日井市)、東は和泉一色いずみいしき(現春日井市)、南は下原しもはら(現春日井市)など四囲は一〇ヵ村と境を接している。康安二年(一三六二)の円覚寺文書目録(円覚寺文書)に「三通 大草郷給主性阿後家申三分一定損申状并百姓連署請状」と記されている。これらの文書は文和四年(一三五五)のものである。

寛文一一年(一六七一)の家数一〇七、人数七七三(寛文覚書)。「徇行記」には「此村戸口多クシテ大体ハ村方ニテ佃力足レリ」とあり概高一千七八五石余のうち一千六八七石余が藩士二八人の給知。


大草村
おおくさむら

[現在地名]小原村大草

犬伏いぬぶせ川の流域にあり、東西に松名まつな道・飯田街道、南北に瑞浪みずなみ道が通る。東貝津ひがしがいとというカイト名が残る。村内に宝篋印塔五基と五輪塔四基が残る。寛永郷帳では岡崎藩領、天明二年(一七八二)幕府領と旗本巨勢求馬之助領、明治元年(一八六八)重原藩領と巨勢求馬之助領である。享保一二年(一七二七)御林山反別(鈴木早苗氏蔵)によると、松木立一〇〇町八反歩がある。寛政八年(一七九六)三州加茂郡大草村指出明細帳(小原村誌)による戸口は三二戸・一五五人、うち男八三・女七二、馬四匹。


大草村
おおくさむら

[現在地名]浅川町大草

阿武隈高地西縁の丘陵地に位置し、南西部を久慈くじ川の支流大草川が北流する。北は松野入まつのいり村・中里なかざと村・根岸ねぎし村。天正一八年(一五九〇)正月二一日の佐竹義宣証状(浅川史)に「大草之儀者新所ニ指添進之候」とあり、当地は赤坂下総守の新領とされている。なお、永和三年(一三七七)一一月二五日の結城朝治譲状(結城神社文書)は朝治が自らの所領をひこ夜叉に譲ることを定めたものである。そのうち「上小ぬき村・たさきの村・いたくら」など五ヵ所は除かれ、朝治の死後寺庵に寄進することが定められており、「いたくら」は当地の字板倉いたくらに比定される。


大草村
おおくさむら

[現在地名]鳳来町富保とみやす

南はおか村、北は黒谷くろや村に接する。集落は千寿せんじゆヶ峰東側扇状地にある上大草かみおおくさと、大井おおい川沿いの下大草とに分れる。村域を流れる大井川は集水区域が広く、水量が豊富で落差がある。この特徴を生かして多くの堰をつくり、水田を開発し、水車を設けて精米・製粉を行った。上流では水量に応じて、水受けのひしゃく(ボットリ)を一―八としたものを設けた。


大草村
おおくさむら

[現在地名]田原町大草

太平洋岸に面し、東は水川みずがわ村、西は高松たかまつ(現赤羽根町)と隣接する。「神鳳鈔」にある大草御薗はこの地にあったとも考えられる。天保三年(一八三二)の「地方秘録」によれば、田は三五町八畝余、畑は三〇町四反一畝弱で、網数一一帖、舟数一〇。


大草村
おおくさむら

[現在地名]瑞浪市土岐町ときちよう 大草

神篦こうの村の東、屏風びようぶ山の西中腹にある。神篦村枝郷で、寛文(一六六一―七三)頃に同村から独立したとされるが、郷帳類ではいずれも神篦村として一括される。岩村藩領。明治五年(一八七二)村明細帳によれば田高一五石余・一町一反余、畑高四石余・六反余、新田として田高五石余・五反余、畑高九石余・一町三反余、家数一一、男二一・女三一、馬四。


大草村
おおくさむら

[現在地名]御津町大草

御津川を隔てて泙野なぎの村の西にあたる。泙野村より赤根あかね村へ至る平坂へいさか道が通る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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