西尾村
にしおむら
[現在地名]西尾市鶴城町・北旭町・南旭町・高砂町・吾妻町・永楽町・花ノ木町・城崎町・桜町・永吉町・桜木町・住吉町・高畠町・鶴舞町・末広町・千歳町・天神町・亀沢町・新屋敷町・緑町・山下町・若松町・宮町・菅原町・神下町
侍屋敷や町人屋敷を除き、町人屋敷の屋敷尻の田畑まで含んだ城下の村々で、初め西尾郷とよんだ。外町・新屋敷・追羽新村・山下新屋敷を含み、明治二年(一八六九)の高一千五九五石八斗八升。
外町は、追羽門の外に開けた町で、明和元年(一七六四)六万石の松平氏の入封により侍屋敷の増設に迫られ、同四年開発され、初め追羽新屋敷とよんだ。
西尾村
さいおむら
[現在地名]春日井市西尾町
明知村の北、下街道に沿う。村の東端の弥勒ヶ峰は美濃との国境で、「府志」に「東至濃州二十原村為界伝云山下有弥勒堂故名」とある。現在、弥勒山(四二六メートル)・道樹山(四一二メートル)の山続きは大谷山と総称される。寛永九年(一六三二)九月二四日の春日井郡西尾村見立帳(西尾区有)に「西尾村惣百姓中」とみえる。妙見宮由緒書(密蔵院蔵)によると、日本武尊が東征の帰途、内津の方を振返った折、馬の尾が西を向き西尾とよぶとあるが、地形から西尾とよばれたのであろう。
西尾村
にしおむら
[現在地名]松江市西尾町
和久羅山の南西麓に位置し、北は上東川津村、西は西川津村、南は朝酌川・大橋川などやその中洲を挟んで意宇郡東津田村。中世は長田西郷に含まれ、坪谷村とよばれていた。室町期と推定される西長田郷所領目録写(多胡家証文)に市成村・柴尾村などとともに西長田郷(長田西郷)を構成する村の一つとして坪谷村がみえる。文明六年(一四七四)には、島根郡坪谷村に対して朝山八田が質券の地と号して押領を行ったと、塩治政通が訴えている(「政所賦銘引付」同年一〇月二〇日条)。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高五八五石余、寛文四年(一六六四)には本田高五六一石余・新田高二石余。
西尾村
にしおむら
[現在地名]北区有野町有野・藤原台中町一―三丁目・同六丁目・同八丁目
馬場村の南、有野川中流域西岸に位置する有馬郡の村。村内で有馬街道と丹生山田庄方面から三田へ抜ける道が交差する。もと結場村など三村とともに中村として一括された。分村までは結場村に同じ。分村後の高は二二九石余で武蔵岡部藩領(「国絵図御取調書上写」細井家文書)。以後同藩領のまま幕末に至った。享保二〇年(一七三五)の摂河泉石高調では二六九石余。元禄三年(一六九〇)頃の家数二八・人数一八一(前掲書上写)。前述の街道の交差点は人家が増え、幕末期には五穀・肥料などを扱う有力商人も現れ、集落は五社とよばれて、一地区を形成するようになった。
西尾村
にしおむら
[現在地名]北茂安町大字東尾字西尾
集落は標高約一〇メートルの丘陵の南端に東尾村に西接してあり、寒水川東岸の低地に耕地が広く展開する。集落内を久留米道が東西に通る。正保絵図に村名がみえる。佐賀藩の藩政期には、地米(年貢)四九四石余(貞享四年改郷村帳)。村は家老太田鍋島家(高四千二五〇石、物成一千七〇〇石)のおもな知行地であった(嘉永六年写の大小配分石高帳)。郷村帳記載の枝村である川原は北に離れて現中原町との境に近く、新村(現西尾上地)は南に離れて寒水川に沿う。新宿は久留米道に沿う街村である。
八幡神社は西尾城本丸跡といわれる高台に鎮座する。
西尾村
にしおむら
[現在地名]倉敷市西尾・庄新町
日畑村の南西、上庄村の北、日差山の南面に位置する。東を足守川が流れ、往古入海であった頃、河口にできた浅瀬の西の尾であったので、地名がついたと伝える。正保郷帳に東庄村の枝村として記載され、元禄期(一六八八―一七〇四)に独立した。元禄一二年備中一国拾壱郡村高帳(石井文書)では高二一二石余、庭瀬藩領(板倉氏)。
西尾村
にしおむら
[現在地名]武生市西尾町
味真野の西、池田街道の北側にあって東は宮谷村、西は大手村、西北は下真柄村。中世は真柄保に含まれた。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも真柄郷に含まれ、正保郷帳では「西袋村」とみえ、元禄郷帳から西尾村となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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