西尾城(読み)にしおじょう

日本の城がわかる事典 「西尾城」の解説

にしおじょう【西尾城】

愛知県西尾市にあった安土桃山時代後期から江戸時代にかけての連郭式の平山城(ひらやまじろ)。1585年(天正13)に、徳川家康の命により、かつて西条城があったといわれる場所につくられた城で、江戸時代には西尾藩の藩庁が置かれた。三河平野の南部の矢作川矢作古川に囲まれた、今日の西尾市の中心部にあった城で、天守本丸ではなく二の丸に建てられていた城である。同様の例は、近世城郭としてはほかに徳島城(徳島県徳島市)、津和野城(島根県鹿足郡津和野町)など、全国的に数例で、たいへんめずらしい(中世の山城・平山城の中には、地形上の制約などから、こうした例はめずらしくない)。西尾城の前身となった西条城は、鎌倉時代の1221年(承久3)の承久の変で戦功をあげた足利善氏が築城した城といわれ、今日の矢作古川(当時の矢作川)をはさんで東条城(東祥城、幡豆郡吉良町)と対になっていたというが、築城の経緯はくわしくわかっていない。また、前身となった西条城の名称については論争がある。戦国時代に入り、1560年(永禄3)に牧野成定が入城したが、今川方として桶狭間の戦いに従軍した松平元康(のちの徳川家康)は、この戦いの翌年の1561年(永禄4)、三河で今川氏から独立した。このとき、元康は家臣酒井正親を同城に入城させ今日の西尾市一帯を治めさせた。このとき、正親が西条を西尾に改名したという言い伝えがある(『西尾市史』)。その後、正親次男の酒井重忠が城を引き継ぎ、重忠は1585年(天正13)、家康の命を受けて、東の丸と帯曲輪(おびぐるわ)の拡張や、堀や石塁の造成など西条城の大規模な拡張と修築を行い、櫓門(やぐらもん)、櫓類、天守などを築いた。1590年(天正18)、代わって入城したのは、豊臣恩顧の田中吉政である。吉政は西尾城の再整備に着手し、三の丸の拡張のほか、大手黒門、新門、2棟の櫓門の建設を行い、近世城郭としての西尾城をほぼ完成させた。関ヶ原の戦いの翌年の1601年(慶長6)、本多康俊が西尾藩2万石の初代藩主として入城、以後、松平成重、本多俊次太田資宗譜代大名の城主(藩主)が交替した。1641年(寛永18)、城主の太田資宗は外郭の築城工事に着手し、1645年(正保2)に入城した井伊直好(井伊直政の孫)が工事を引き継いで、1655年(明暦1)に完成させ、西尾城の最終的な城観が整った。このころの西尾城は3棟の3重櫓と2重櫓のある本丸、3重の天守と2重櫓のある二の丸のほか、それぞれ2棟の2重櫓がある北の丸、東の丸、三の丸、姫の丸があった。その後も、西尾城には譜代大名の城主(藩主)が目まぐるしく立ち替わり入封・入城し、1764年(明和1)に出羽山形藩から松平乗祐(大給松平氏)が入城、代々松平氏が城主として明治維新を迎えた。廃藩置県に伴い、1871年(明治4)に、同城に西尾県の県庁が置かれたが、同年中に額田県に併合され、翌年に天守以下の建物が解体され、1878年(明治11)に廃城となった。城跡には現在、曲輪、石垣、土塁、堀の遺構が残っている。また、1995年(平成7)、城跡に近衛家の数奇屋棟と茶室棟が移築され、翌1996年(平成8)には本丸丑寅櫓と鍮石門が再建され、本丸、二の丸跡の一部が整備されて、西尾市立歴史公園として開園した。旧姫の丸跡には、西尾市資料館が建てられているほか、旧東の丸は西尾小学校の敷地や住宅地・市街地となっている。名鉄西尾線西尾駅から徒歩約15分。◇鶴城、鶴ヶ城、錦丘城、西条城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西尾城の言及

【西尾[市]】より

…てんてこ祭,大名行列,かぎ万灯,御殿万歳などの郷土芸能があり,三河万歳発祥の地とされる。【溝口 常俊】
[西尾城下]
 三河国幡豆(はず)郡の西尾城を中心とする城下町。現西尾市の中心市街地にあたる。…

※「西尾城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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