西岩瀬町(読み)にしいわせまち

日本歴史地名大系 「西岩瀬町」の解説

西岩瀬町
にしいわせまち

[現在地名]富山市四方西岩瀬よかたにしいわせ四方北窪よかたきたくぼ

富山湾に面し、西は四方町、東は神通古川の河口。富山藩の外港在郷町で、富山藩三宿の一。郷帳類には西岩瀬村とみえるが、貞享二年(一六八五)には町年寄の存在が知られ、以後西岩瀬町、ないしは単に岩瀬町と称された。婦負郡に属し、浜往来および富山城下と結ぶ街道が通る。正保四年(一六四七)の「越中道記」によれば、愛宕あたご村から高岡町に至る街道に沿い、愛宕村から当地まで一里二二町四六間(道幅六尺)、当地から打出うちいで村まで二四町(道幅一間四尺)。かつて当地付近の神通川は現在より西を流れていたが、万治元年(一六五八)以後の洪水により神通川は当地と東岩瀬に注ぐ二又川となり、さらに寛文八年(一六六八)の洪水で、東岩瀬に注ぐものが本流となった。東岩瀬とともに「和名抄」所載の新川郡石勢いわせ郷、「延喜式」兵部省にみえる磐瀬いわせ駅などの遺称地とされる。天喜元年(一〇五三)八月の越中守源頼家歌合には石西いわせ渡、永正一五年(一五一八)一一月の頤神軒存算用状(伊達家文書)には「百文 いはせのわたしもり」などとあり、神通川河口の渡場として知られた。天正一〇年(一五八二)二月一〇日の知行方目録(越佐史料所収川辺氏旧記)によると、上杉景勝によってなか郡「西いわせ一円」が神保信包に与えられている。同一四年五月二五日、上洛の途次の上杉景勝は、村椿むらつばき(現黒部市)から当地に至り宿泊した。その際五福ごふく山の武士三人が宿の世話などを行ったという。翌二六日は洪水のため逗留している(「天正一四年上洛日帳」山形県米沢市立米沢図書館蔵)

慶長一四年(一六〇九)の神通川洪水により田地を流失し、漁猟が中心となった。河口変更から東岩瀬村と、村境・猟場争論がたびたび起こった。同一六年の詮議書(三州地理雑誌)には西岩瀬の物成として地子銀六〇〇目、猟舟一二艘につき高岡城に隠居の前田利長賄御肴役一〇日分と網役二六四匁、出来舟一二艘につき舟役一四七匁などとみえる。大舟は出羽秋田、蝦夷松前まつまえ(現北海道松前町)、越前敦賀つるが(現福井県敦賀市)方面への廻船で米輸送を担った。詮議書には六郎左衛門以下一三人の本百姓が連署している。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領で、正保郷帳では高六三石余、畑方四町二反余、新田高一〇七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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