田井庄(読み)たいのしよう

日本歴史地名大系 「田井庄」の解説

田井庄
たいのしよう

三好郡西部に所在した庄園。太井たい庄・泰井庄などともみえ、大西おおにし郷・中西なかにし(現池田町)山城やましろ(現山城町)などからなる。庄域は不明な点も多いが、西祖谷山にしいややま村西部・山城町池田いけだ町などが含まれていたことは確実で、三好町昼間ひるま井川いかわ井内いのうちを含むとする説もあり、三好郡の西半分以上の広大なものであったと推定される。「阿波志」は中西村(現池田町)以南とする。応長元年(一三一一)後六月三日の高階恒基奉書(三好郡志所収雲辺寺文書)に「阿波国田井庄野路内荒野事、四至堺任先規、右荒野者、雲辺寺別当権律師仕申請之旨」とみえ、田井庄野路内の荒野が雲辺うんぺん(現池田町)に寄進されている。建武二年(一三三五)七月一二日、後醍醐天皇が西園寺公重に所領を安堵したなかに伊予国宇和うわ(現愛媛県東宇和郡)宇摩うま(現同県宇摩郡)・阿波国うら(現石井町)などとともに阿波国田井庄がみえる(「後醍醐天皇綸旨」西園寺家文書)。当庄の成立事情は不詳だが、戦国時代に池田を中心とする三好郡域で活躍した大西氏の先祖は近藤氏で、鎌倉時代に西園寺家から派遣された庄官であったという。


田井庄
たいのしよう

上野うえのを北端に、南は紀ノ川北岸の川辺かわなべ永穂なんご西田井にしたい弘西ひろにしに至る地域と考えられるが、確定できない。河北平野の一角を占め国府にも接近し、南海道(近世の淡島街道)・中世の熊野街道の通る上野や、同じく熊野街道の通る川辺を中心に、早くから開発の進んだ地と推定される。ただし、南部の紀ノ川北岸地域は河道の変動や水害等の影響を強く受けたと考えられる。

承安四年(一一七四)一二月日付紀実俊解状案(栗栖家文書)は河南の松島まつしまの開発に関する史料であるが、松島松門まつかど名の四至のなかに「東則田井・田屋」とある。また同年月日付の別の紀実俊解状案(同文書)の実俊の申請を認可する在庁官人らの署判に「永穂中小大夫散位藤原朝臣」「田井執行大夫散位中臣朝臣」「中村三郎大夫散位秦宿禰」らの名がみえる。この「田井」は南部の永穂・川辺地区も含むと考えられ、「中村」は川辺のなか村といわれた楠本くすもとを示すと考えられる。在庁官人が称する地名から当時は国衙領であったと推定され、在地領主的土豪が国衙の実権を握っている様子が知られる。


田井庄
たいのしよう

現美原町北部、堺市北東部、松原市南部にわたる平野部に比定される。保延三年(一一三七)四月日付石清水八幡宮検校光清譲状案(石清水文書)に「相博庄田井」とみえ、このとき他の五庄園とともに検校光清から娘の美濃局に譲られ、六所の所当年貢の半分は山城石清水いわしみず八幡宮寺用途に、半分は光清建立の観音堂の費用にあてることが定められた。仁安三年(一一六八)四月二五日の六条天皇宣旨案(同文書)によると無品道恵親王から定慧に譲られ、元久二年(一二〇五)一二月日付道清処分状案(同文書)では道清を経て、別当宗清に譲られている。前記のいずれの史料にも「相博庄田井」「相博庄田井庄」とみえ、田井庄が他所との相博(交換)によって石清水八幡領となり、それが庄名としても用いられていたことが知られる。文和元年(一三五二)一〇月一八日の沙弥某施行状(同文書)によれば足利義詮寄進状に任せ田井庄地頭職が八幡宮に寄進されている。


田井庄
たいのしよう

三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「二十八田井庄四十丁五反寄進大乗院(下略)」とあり、興福寺大乗院領荘園。面積は四〇町余であるが、うち一二町は名田で一町二反余―一町六反の八名からなり、均等名といわれる。また公文・下司・職事の給分七町があり、そのほかに「甲乙人知行分」がある。そのうちに、真言しんごん(東大寺塔頭か)領九町一反、興福寺五大ごだい院領二町、春日社談義田一丁、同大般若田八反、東大寺大仏灯油田二反、西大寺領二反、竜福りゆうふく寺領三反などがある。以上は嘉暦四年(一三二九)の注進である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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