デジタル大辞泉
「見付」の意味・読み・例文・類語
み‐つけ【見付/見▽附】
1 枡形をもつ城門の外側に面する部分。見張りの番兵を置いた。俗に江戸城には36見付があったといわれ、現在は四谷見付・赤坂見付などが呼称として残る。
2 建築で、部材の正面。また、その幅。主に仕上げ材・化粧材についていう。みつき。
3 すぐ向こうに見える所。すぐ目につく所。みつき。
「あの―の松でござる」〈狂言記・富士松〉
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み‐つけ【見付・見附】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙
- ① 見つけること。見とがめること。
- ② 升形を持っている城門で、外方に面する部分。見張りの番兵を置いた。俗に江戸城には三十六見付があったと言われ、現在は四谷見付、赤坂見付、牛込見付、市ケ谷見付などが地名として残っている。
- [初出の実例]「門際なる見付の石を跳起し」(出典:浄瑠璃・自然居士(1697頃)二)
- ③ ちょうど正面に見えるところ。すぐ目の前に見えるところ。みつき。
- [初出の実例]「見付の枝を折ると申は余り心無い事じゃ」(出典:虎寛本狂言・花盗人(室町末‐近世初))
- ④ 能舞台で、見付柱のあたりをいう。
- ⑤ 歌舞伎で、舞台の正面。みつき。
- [初出の実例]「見附一面の茶屋表通り」(出典:歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)一)
- ⑥ 建築で、部材の正面の幅をいう。みつき。
- [ 2 ]
- [ 一 ] ( 見付 ) 静岡県磐田市の地名。古くは遠江国の国府が置かれ、江戸時代は東海道五十三次袋井と浜松の間の宿駅であった。
- [ 二 ] ( 見附 ) 新潟県中部の地名。信濃川支流の刈谷田川の渡船場・市場町におこり、文政年間(一八一八‐三〇)の見附結城の生産以後機業地となる。昭和二九年(一九五四)市制。
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見付
みつけ
現市域中心部、磐田原台地南端の微高地にある。平安末期より遠江国府、鎌倉期より遠江国守護所も置かれた地で、国府・府中、見付府・見付府中ともよばれ、おそらく近世の見付宿を中心により広い範囲をさしたと推定される。「法然上人絵伝」の正嘉二年(一二五八)一〇月頃の記事に「当国ミつけの国府」とある。
古代の遠江国府は中泉の御殿から二之宮にかけての地域(御殿・二之宮遺跡)に置かれた。その後平安の小海進とよばれる気候の温暖化による海面上昇のため、遠州灘に面した地域は沼地化が進み、平安末期より国府は北方の見付に移ったと考えられている。見付の北西部で発見された一の谷中世墳墓群で大量の中世墳墓が確認され、中世都市見付が平安末期に営まれ、戦国末期まで連綿と続いていたことが裏付けられた。見付の東側にも小規模ながら同様の中世墳墓(住吉遺跡)が営まれており、都市の東西の境界に造墓されているという計画的な都市造りがなされていた。治承四年(一一八〇)一〇月二一日、甲斐源氏安田義定が遠江国の守護に補任され(吾妻鏡)、それに伴い甲斐国より一族が遠江国に移住したという(「玉葉」治承四年一二月一二日条)。文治四年(一一八八)五月には義定を願主として大般若経(滋賀県柳瀬在地講蔵)が「巌室寺」(現豊岡村)で書写された。建久元年(一一九〇)義定は遠江守より下総守に移され(「吾妻鏡」同年二月一〇日条)、同五年鎌倉幕府によって誅殺された(同書同年八月一九日条)。その影響か、翌六年に国府の役職にあったと思われる勝田成長が「当国之府光堂」で乱闘事件を起こしている(同書同年一二月五日条)。この光堂は蓮光寺のことで、同寺は現在廃寺になっているが、見付町のやや西寄り、現在の西坂会館付近にあったと伝えられている。承元三年(一二〇九)には「府中朝日寺」や「遠江国府中薬師堂敷地」で大般若経(福井県小浜市中村区有)が書写された。「朝日寺」は不明だが、薬師堂は現国分寺のことである。なお見付には前出蓮光寺のほか時宗の西光寺・省光寺があり、いずれも弘安年中(一二七八―八八)に他の宗派から改宗したと伝えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
見付(静岡県)
みつけ
静岡県磐田市(いわたし)の一地区。磐田原台地南縁と今浦(いまのうら)低湿地に挟まれた地区。遠江(とおとうみ)の国府の所在地で、鎌倉時代以来、東海道の宿駅として繁栄。南北朝時代には遠江守護今川範国(のりくに)が本拠地とした。江戸時代、東海道五十三次の宿場町として発展。東海道本線の開通で一時衰退したが、東名高速道路浜松・磐田・袋井各インターチェンジの近接地として急速に工場が進出、住宅地化が著しい。見付北西の一の谷墳墓群は中世墳墓遺跡として注目を集めた。旧見付学校は明治につくられた洋風小学校校舎で、教育資料館となっている(国指定史跡)。また、矢奈比賣神社(やなひめじんじゃ)(見付天神社)の大祭で行われる裸祭は国の重要無形民俗文化財。
[川崎文昭]
見付(東京都)
みつけ
東京都、旧江戸城の城門の前の部分をさす。多門、塁壁、枡(ます)形などのこと。「見附」とも表記。江戸城は内外の堀で守られ、見付とよばれた多くの城門が設けられ、その出入りに厳重な監視の目が注がれていた。江戸城三十六見付といわれたが、それは語呂(ごろ)をよくした数合わせで、実態と呼称はあっていない。枡形四十を見付としたとか、一般町人の通行可能な城門のみを見付とよんだなどの説もあるが、それでも実際には36以上あるといわれる。諸説はいろいろだが、見付には、譜代(ふだい)大名や旗本が軍役として昼夜の警備にあたり、その人員や服装まで様式規定は厳重に定められ、また厳守された。現在、呼称としては赤坂見附、四谷見附(よつやみつけ)、市谷見附(いちがやみつけ)が残っているが、大手、内桜田、平河などの城門をはじめ、田安、外桜田、半蔵、和田倉、馬場先、日比谷(ひびや)の内堀、市谷、四谷の外堀に石垣などを残して、門の跡をとどめている。
[菊池万雄]
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見付【みつけ】
(1)番兵の見張る所,転じて城門の意。江戸城には内郭,外郭に合計36門あって三十六見付と呼び,譜代大名の家臣が警備した。四谷見付,赤坂見付,牛込見付など。(2)建築用語で,おもに枠,框(かまち)などの部材の正面の幅をいう。
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見付
みつけ
静岡県南西部,磐田市の中心市街地の1つ。磐田原台地の南端の東海道沿いに町並みが連なっている。東海道の宿場町として発達した町並みの南側は,古代に今ノ浦と呼ばれた湿地帯である。西方の台地に遠江国分寺跡 (特別史跡) ,町並みの中央付近に国府の跡が残る。見付天神の裸祭は有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報