角間村(読み)かくまむら

日本歴史地名大系 「角間村」の解説

角間村
かくまむら

[現在地名]氷見市角間

東は大窪おおくぼ村・五十谷いかだん村、南は磯辺いそべ村、北は能州石動せきどう山とありはら(現石川県鹿島町)。石動山丘陵の南斜面を開いて階段状の小規模な水田と集落が営まれ、中田浦なかたうら城戸きど村木むらきの三垣内よりなる。村の中央部の谷を支流雁田がんだ川が南流し、磯辺村で阿尾あお川に合流する。地滑り地帯に位置し、古くからその被害に悩まされてきた。伝承では享保年間(一七一六―三六)能州羽咋はくい神子原みこはら(現石川県羽咋市)とともに当村にも大地滑りが起こり、木戸きど山が幅六〇間・高さ二〇丈余にわたって崩壊したといい、能登境に近い村木集落に起きた天保(一八三〇―四四)初め頃の地滑りによって、久左衛門・庄九郎家などがやむなく他所へ移り住んだとされる(胡桃地すべり災害誌)


角間村
かくまむら

[現在地名]湯沢市角間

雄物川白子しろこ川・皆瀬みなせ川の合流点の氾濫原に発達した村。北は皆瀬川を隔てて平鹿ひらか植田うえだ(現十文字町)、東は岩崎いわさき村、南は杉沢新所すぎさわあらどころ村・八幡やわた村、西は雄物川を隔てて大久保おおくぼ村(現雄勝おがち郡羽後町)に接する。

奥羽永慶軍記」に、文禄四年(一五九五)九月最上勢が岩崎城を占領した折に、「岩崎ノ西ノ方ニ有シ河熊・植田南部倉なべくら新田目あらため・今泉ノ五ケ城敵ニ取籠ラレ随分防トイヘトモ小勢ニテ叶ヒ難ク」とあり、最上氏の支配下になったと思われる。


角間村
かくまむら

[現在地名]吉井町桜井さくらい

筑後川中流左岸に沿う微高地に位置し、小江おえ村・長野ながの村・上宮田かみみやだ村に接する。本高は一〇七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二一〇石・役高二二〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二二三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一一町五反余・開田一畝余・畑田一町二反余・畑一町五反余・居屋敷二反余。旧高旧領取調帳によると高二一六石余。寛文四年(一六六四)大石長野おおいしながの水道建設では水害を恐れて当初賛成しなかったが、合意後は協力し、重要な分水点である「角間天秤」が設けられた(大石長野堰渠誌)


角間村
かくまむら

[現在地名]八尾町角間・梅苑町うめぞのちよう

別荘べつそう川の支流みようはら川の下流域にある。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高九三石余。正保郷帳に村名がみえ、高九三石余、田方二町二反・畑方四町余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)の高一三〇石余。寛政二年(一七九〇)の古高一三一石余・定免四ツ三歩、新田高四石余・免一ツ八分三厘余、小物成銀は鮎川役二〇匁(高物成品々手鏡)


角間村
かくまむら

[現在地名]金沢市角間町

浅野川右岸の山地に位置。正保郷帳では中山なかやま村と並記され、高二二六石余、田方六町八反余・畑方八町二反余、新田高六一石余(免三ツ一歩四厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一四四石、免五ツ三歩、小物成は山役一〇八匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)


角間村
かくまむら

[現在地名]糸魚川市角間

北山きたやま村の西、砂場すなぱ村の北西。北西は東塚ひがしづか村。正保国絵図に高二九石余とある。天和三年郷帳では高五七石七斗余。寛政二年(一七九〇)には田沼領で、当戌田方内見合毛附帳によれば上田五反九畝余・中田一町九反七畝余・下田一町余・下々田二反四畝余、分米合計三六石七斗余で、この年の合毛合は一六石九斗余と半分以下になっている(糸魚川市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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