狂言の曲名。出家狂言。大蔵,和泉両派にある。住吉の天王寺参詣を志す僧が,摂津の国神崎の渡し場の近くまで来る。茶屋で休息し,代金を払わずに出て行こうとし,亭主にとがめられる。が,真実無一文と知って亭主は同情し,この先の神崎の渡し守は秀句(洒落)好きなので,船にただ乗りできる秀句を教えようといい,まず〈平家の公達〉と言って,その心はと問われたら〈薩摩守忠度(ただのり)〉と答えよと知恵を授ける。さて,船に乗り船賃を要求された僧は,教えられたとおり〈平家の公達〉といい,秀句らしいと気づいた渡し守が〈その心は〉と喜んで問うと,〈薩摩守〉までは答えたが,〈忠度〉を忘れて苦しまぎれに〈青海苔(あおのり)の引き干し〉と答えて叱責される。登場は僧,茶屋,渡し守の3人で,僧がシテ。言語遊戯を中心趣向とし,落語の落ちにも似た結末で一曲を締めくくる。さお一つで船を表現する演技はシテ,アドとも狂言固有の技法が発揮される。
執筆者:羽田 昶
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
狂言の曲名。出家狂言。上方(かみがた)見物にやってきた僧(シテ)が、住吉天王寺へ行こうと神崎の渡しに差しかかり、茶屋に入るが無一文。亭主の施しで茶をふるまわれたうえ、渡し守は秀句好きだからと、ただで舟に乗る方法まで教わる。僧は船頭の趣味心をくすぐりながら、まんまと向こう岸にたどり着き、いざ舟銭がわりの秀句をいう段になって、肝心の「舟銭は薩摩守、つまり平忠度(ただのり)(ただ乗り)」という落ちを忘れてしまい、恥をかく。中世のころ、僧侶(そうりょ)は身に寸銭なくても旅ができたという。宗教者への施しが自分自身の極楽往生につながると考えられていたからである。とても極楽につながるとは思えない僧侶も出没したが、そのような世相の一こまを、鋭い庶民感覚で取り上げている。平家の武将で薩摩守であった平忠度を「ただ乗り」にかけて、「薩摩守」の語が古くから使われている。
[油谷光雄]
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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