日本歴史地名大系 「諸木村」の解説 諸木村もろきむら 広島県:広島市安佐北区諸木村[現在地名]安佐北区高陽(こうよう)町諸木・高陽町倉掛(くらかけ)太田(おおた)川の支流諸木川の上流の地を占める。分岐した西の谷は末光(すえみつ)村、北にあたる下流は玖(く)村である。深川(ふかわ)郷から広島城下への往還が、東の中深川(なかふかわ)村から三(さん)の峠を越えて当村に入り、西の椎木峠(しいのきだお)を経て岩上(いわのうえ)村に出る。六世紀前半と推定される諸木城古墳(円墳)があり、須恵器・土師器・鉄鎌・ガラス玉・鉄製腕輪が出土している。応徳二年(一〇八五)三月一六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(新出厳島文書)に三田(みた)郷のうちとして「諸木村」の名がみえるが、郷内に比定すべき地名はなく、当村のこととも考えられるが、当村は三田郷の範域から外れており、確かではない。 諸木村もろぎむら 鳥取県:西伯郡会見町諸木村[現在地名]会見町諸木現会見町域の北部、小松谷(こまつだに)川中流右岸にあり、集落は越敷野(こしきの)台地から北西に延びるやや低い丘陵地、後(うしろさこ)山の南麓に位置する。北は上安曇(かみあずま)村(現米子市)、東は岩屋谷(いわやだに)村(現岸本町)、西は天万(てま)村。南東に枝村の西原(にしばら)がある。拝領高は三一六石余、本免は三ツ九歩。鷲見氏、米子組士鹿野氏、同沢氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三六〇石余、竈数四一。「伯耆志」では家数四〇・人数一八八、林二町六反余。享保九年(一七二四)荻名(おぎな)村分領大谷(おおたに)山の柴草秣場入会をめぐり、寺内(てらうち)村など一一ヵ村と争った星川(ほしかわ)谷一〇ヵ村の一で、同一三年には長者(ちようじや)原続きの「小原山しようがの原、五輪原」の柴草入会をめぐり、山下五ヵ村の一として大寺(おおてら)村(現岸本町)など二一ヵ村の里方村々と争論を起こしている(在方諸事控)。 諸木村もろきむら 三重県:名賀郡青山町諸木村[現在地名]青山町諸木福川(ふくかわ)村の東南に位置し、東は伊勢国に接する。大部分は山地で集落は西寄りにある。戦国期に北畠氏に属する者があり、伊勢国司諸司系図(上野市沖森直三郎氏蔵)に諸木住御弓頭東治部少輔・諸木住霧生(きりう)城加番狩谷左衛門尉・諸木住狩谷伝五郎の名がみえる。寛文一一年(一六七一)改めの内検によれば本高九五・六一石、平高一六〇・五五石。大部分の一五四・四七石は山田善兵衛の給地。寛延(一七四八―五一)頃の戸数五三、人口二三七、馬一〇。神社は天照太神、鹿島(かしま)・八幡・愛宕(あたご)合祀、寺は安楽(あんらく)寺がある(宗国史)。鹿島神社は中切(なかぎり)にあったが明治四一年(一九〇八)種生(たなお)の種生神社に合祀、昭和三〇年(一九五五)分祀して旧に復した。 諸木村もろぎむら 京都府:船井郡八木町諸木村[現在地名]八木町字諸畑(もろはた)東に日置(ひおき)村、西に畑中(はたなか)村、南は野条(のじよう)村で、北は山を越えて上世木(かみせき)村(現日吉町)。室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)には日置村の隣村に「諸木村」と記される。往古、畑中村と一村で、本郷であったといわれる(丹波志桑船記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by