イギリス、ピューリタン革命の共和制期に生まれた最高官職。一院制の議会とともに「最高の立法権」を有し、行政府たる国務会議を主宰した。1653年、軍隊士官の準備した成文憲法「統治章典」Instrument of Governmentに従ってO・クロムウェルがこれに就任したが、議会との関係がうまくゆかず、地方で反乱が起こるなど不安定な政治状況になった。そのため、クロムウェルはイングランドを最初11、のちに12の軍管区に分け、それぞれに「軍政官」Major-Generalsを置いて直接統治しようとしたが、地方の名望家支配層(ジェントリ)との乖離(かいり)を引き起こすだけに終わった。1658年、クロムウェルの死後、その第3子リチャードが第2代護国卿に就任したが、議会と軍隊との対立を調整できずに翌年辞任し、それによって護国卿政権は終わりを告げた。(書籍版 1986年)
[小泉 徹]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ピューリタン革命において1653年12月に成立した独裁政権の中心をなす職名。クロムウェル(オリヴァー)がこれに就任。議会は存在したが,護国卿に権力は集中した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…51年秋にはスコットランドをも掃討して反革命の脅威を除去したが,航海法の制定を機に第1次英蘭戦争が勃発すると,53年高まる軍の不満を背景にして長期議会(ランプ議会)を武力解散した。その後推薦議員のみで構成された〈指名議会〉が社会改革に熱意をみせると自発的解散に追いこみ,同年末軍幹部の用意した憲法〈統治章典〉に従い,終身の護国卿Lord Protectorに就任した。この護国卿政権は軍隊士官とピューリタンの独裁にほかならず,内外ともに批判勢力に取り囲まれていた。…
…このころから国王に対する不信は高まり,それを背景に設けられた特別法廷は,国王チャールズ1世を〈専制君主,反逆者,殺人者,国民に対する公敵〉として死刑を宣告し,49年1月30日ロンドン市民の見守るなかで国王は処刑された。
[共和政と護国卿政権]
国王処刑につづき君主政と貴族院が廃止され,革命は最高潮に達した。しかしこれまでレベラーズと手を結んで革命を推進してきた独立派は,みずからの手に成果を掌握しようとしてレベラーズとの同盟を解消することを決意し,49年春給料未払を理由に従軍を拒否したレベラーズの反乱を鎮圧,その後にイギリスは一院制の共和国(〈コモンウェルス〉)となる旨の宣言を行った。…
※「護国卿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新