ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サマセット」の意味・わかりやすい解説
サマセット(公)
サマセット[こう]
Somerset, Edward Seymour, 1st Duke of
[没]1552.1.22. ロンドン
イギリスの政治家。国王ヘンリー8世の第3の妃ジェーン・シーモアの兄。ウィルトシャーの旧家の出で,ヘンリー8世に仕え,妹の結婚 (1536) 以後急速に昇進し,1537年ハーフォード伯に叙せられた。 47年甥のエドワード6世が幼少で即位すると,摂政 (→護国卿 ) として国務を掌握し,サマセット公となる。スコットランド女王メアリー・スチュアートとエドワード6世を結婚させて,イングランドとスコットランドの2つの王国を統一しようと,スコットランドに対する融合政策を強行した。そのためそれに反対するスコットランドを,同年ピンキーの戦いで鎮圧。しかし,スコットランド側はメアリーをフランスに送って皇太子と結婚させ,フランスは,49年8月イングランドに宣戦布告した。一方内政面では,礼拝統一法を発布 (49) して国教会の新教化をはかったこと,エンクロージャー反対の施策をとったこと,さらに弟の T.シーモアを反逆罪で処刑したことなどで不評を招いた。そのうえ対フランス戦の戦費捻出のために,無理な財政策を講じたため,国中で蜂起があり,特に R.ケットの反乱は大規模なものとなり,それを処理できず,49年ウォリック伯 (のちのノーサンバーランド〈公〉 ) を中心とする反対派によってロンドン塔に投獄され,解任された。いったん釈放されたが,51年反逆罪で逮捕され,翌年処刑された。
サマセット(伯)
サマセット[はく]
Somerset, Robert Carr(Ker), Earl of
[没]1645.7. ロクスバラ
イングランド王ジェームズ1世の寵臣。スコットランド出身。 1607年王に認められてその寵臣になり,11年ロチェスター子爵に叙せられた。みずからは無能であったが,詩人 T.オーバーベリーを顧問にしてその助言に頼った。3代エセックス (伯)の妻フランセス・ハワードと恋に陥り,12年結婚を決意。翌年伯爵に叙任。彼に対する影響力の低下を恐れたオーバーベリーは結婚に猛反対したので,同年フランセスはノーサンプトン (伯)の助けをかりて彼を投獄したうえ,毒殺し,年末に結婚。 14年宮内卿に任じられたが,初代バッキンガム (公)の出現で王寵は薄れた。 15年オーバーベリー暗殺問題が暴露されてフランセスとともに逮捕され,無関係を主張したが聞き入れられず,両人とも 16~21年まで投獄された。釈放後は郷里に引退。
サマセット(公)
サマセット[こう]
Somerset, Edmund Beaufort, 1st Duke of
[没]1455.5.22. セントオールバンズ
イギリスの貴族。1430年代に国王ヘンリー6世の政府を牛耳ったボーフォート家に属し,フランス遠征に従軍,1447年フランスでの総司令官に任じられ,翌 1448年サマセット公となった。1453年ヘンリーが精神を病むと議会はサマセットを投獄し,宿敵ヨーク公リチャードを摂政に任じた。翌 1454年国王が回復するとサマセットも復権したが,リチャード軍の挑戦を受け,1455年セントオールバンズの戦い(→バラ戦争)で戦死。
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