貝原村(読み)かいがはらむら

日本歴史地名大系 「貝原村」の解説

貝原村
かいがはらむら

[現在地名]御調町かいはら

南流する山田やまだ川を境に村・高尾たかお村の東にあり、北西は山地公文くもん村に接し、南は御調川。他村に比し平坦地は広く、灌漑用水を山田川から引いて、まつ縄手・京免きようめん縄手・札場ふだば縄手などの区画を設ける。北部丘陵の南斜面に古墳時代後期の貝ヶ原古墳群、その東にむかで岩山口いわやまぐち古墳群があり、人骨とともに金環・刀子・小玉・須恵器・土師器などが出土。御調川流域の平坦地には条里制の遺構が認められる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に、高五三三・二七八石とあり、のちの千堂せんどう村と下山田しもやまだ村の地を含む。

貝原村
かいはらむら

[現在地名]日野町貝原

現日野町域の北東端、北東流する日野川の右岸段丘に位置し、同川沿いに日野往来が通る。北の対岸は下安井しもやすい(現江府町)。「伯耆志」によると、山中に赤名清水あかなしみずとよばれる泉があり、村名は産土神十二所権現(現在の貝原神社)の祭神蚶貝比売命・蛤貝比売命によるという。日野川には貝原堰が設けられており、当村根雨ねう宿・金持かもち村・板井原いたいばら宿が管理していた(「松尾家記録」松尾家文書)

貝原村
かいばらむら

[現在地名]下市町大字貝原

ひつヶ岳西北麓、丹生にう川南岸に立地。かい原の義か。丹生郷のうち。慶長郷帳には「貝ノ原村」とみえ、村高六四・〇七五石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一三七・〇一六石と倍増した。櫃ヶ岳山頂の八幡神社は俗に櫃ヶ岳大明神と称する。

宝暦六年(一七五六)の貝原村々明細帳(梶本家文書)によると、延宝検地の村高一三七・〇一六石(反別一四町五反五畝二六歩)坪手垣内つぼてかいと(高四六・九六三石、反別四町六反七畝二〇歩)山手垣内やまてかいと(高九〇・〇五三石、反別九町八反八畝六歩)に分けている。

貝原村
かいばらむら

[現在地名]舘岩村貝原

吉高よしたか村の南、また川左岸の狭い平坦地にある。「会津風土記」に「貝原 端村岩間戸」とある。元禄七年(一六九四)の村明細帳(星家文書)によると高六七石余、反別一六町七反余で畑のみ。寛延(一七四八―五一)頃の村々覚帳(同文書)では高四四石余、反別一一町一反余で畑・屋敷のみ、免二ツ五分、家数七・人数三八。安永七年(一七七八)には高四七石余(会津鑑)。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高七三石余。

貝原村
かいはらむら

[現在地名]社町貝原

加古川左岸の平野部に位置し、北東は垂水たるみ村。慶長国絵図に「井原村」とみえる。正保郷帳では「柏原村」と記され、赤穂藩領、田方一六〇石余・畠方三一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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