日本歴史地名大系 「貝沢村」の解説 貝沢村かいざわむら 群馬県:高崎市貝沢村[現在地名]高崎市貝沢町・稲荷町(いなりちよう)・日光町(につこうちよう)・天神町(てんじんちよう)東南流する井野(いの)川の右岸に位置し、西は浜尻(はまじり)村・飯塚(いいづか)村。明徳五年(一三九四)六月二四日付了悟寄進状写(「歴代古案」所収)に「上野国くるまの郡かいさわのむらの内聖了寺」がみえる。聖因庵主の菩提のために、武蔵国幡羅(はたら)郡長井(ながい)庄田島(たじま)郷(現埼玉県大里郡妻沼町)のうち田八反・畑五反が寄進されているが、聖了寺の所在地は不明。群馬郡に属し、元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では中郷に村名がみえる(高崎藩領)。高一千三九三石余、田方九一町六反余・畑方四一町九反余。江戸後期の御改革組合村高帳では同藩領で家数九三。 貝沢村かいざわむら 秋田県:雄勝郡羽後町貝沢村[現在地名]羽後町貝沢雄物川左岸の氾濫原に位置し、北は大久保(おおくぼ)村、西は杉宮(すぎのみや)村・大戸野中(おおとのなか)村、南は赤袴(あかはかま)村、東は雄物川を隔てて八幡(やわた)村・柳田(やなぎだ)村(現湯沢市)と接する。古代末期に勢力をもった貝沢三郎清原武道の館があったと伝えられ、貝沢集落の北部の平地に擬定される。戦国期には小野寺領となり、「語伝仙北之次第」に慶長五年(一六〇〇)一〇月「深堀・貝沢・赤袴等ハ西馬音内番手を入堅固」と伝える。 貝沢村かいざわむら 青森県:弘前市貝沢村[現在地名]弘前市貝沢岩木山の北東山麓にあり、弘前城下から鰺ヶ沢(あじがさわ)町(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に向かう鰺ヶ沢街道に沿う。西は大森(おおもり)村、南は鬼沢(おにざわ)村に続き、東は小友(おとも)村と接する。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和(はなわ)郡の新田に村名があり、村高二四・四八石。しかし寛文四年(一六六四)の高辻帳には村名はない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高一〇一・九八三石、うち田方九二・〇七四石、畑方九・九〇九石、田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・一石と低い。 貝沢村かいざわむら 秋田県:由利郡鳥海村伏見村貝沢村[現在地名]鳥海村伏見 貝沢伏見(ふしみ)村の西、標高二〇〇メートルの河岸段丘上の集落。年代不明の「地頭菅原家之控」を写したという貝沢村図面(鳥海村公民館蔵)によれば一四軒は元和元年(一六一五)から、二軒は延宝元年(一六七三)から開けたとあり、近世初期に新田村として成立した。北の秣場の南に才(さい)ノ神(かみ)村から東西に走る下川内(しもかわうち)堰、秣場の北に保呂波沢堰があり、貝沢村の西で下川内堰と交差する。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by