日本大百科全書(ニッポニカ) 「貿易・為替の自由化」の意味・わかりやすい解説
貿易・為替の自由化
ぼうえきかわせのじゆうか
liberalization of trade and exchange
外国貿易や外国為替(外貨)の取引に対する統制を排除して自由にすること。貿易や外国為替取引に対する統制は輸入面や外国為替の需要面に対して行われることが多いので、通常は、自由化は輸入や外貨の使途の自由化を意味する。自由化の基本理念は、比較優位の原理や大市場の原理に基づく国際分業を通じて国際間で資源の効率的な配分を実現し、世界経済の発展を促進することであるとされるが、一方では自由な貿易が一国の産業の発展を阻害したり国際収支の赤字や失業を助長することもあるため、しばしば貿易に対する国家の介入が行われてきた。
第二次世界大戦後の貿易・為替の自由化の動向の一つの背景は、1930年代の世界経済の苦い経験である。1929年アメリカに端を発した大不況のなかで、各国はそれに対処して関税の引上げや為替管理、為替切下げなどの近隣窮乏化政策をとったが、それが相手国の報復的な措置を誘発し、結局は世界貿易を縮小して、世界経済の停滞をいっそう深刻化したのである。このような経験に対する反省から、第二次世界大戦後、できる限り貿易を自由化し貿易の拡大と世界経済の発展を図るための国際機関や国際協定として生まれたのが、IMF(国際通貨基金)やガット(関税および貿易に関する一般協定)であった。しかし、アメリカを除く多くの国々は、戦争によって生産力に大きな打撃を受け、一方、戦後の復興過程で多額の輸入を必要とし、国際収支は赤字に陥った。そこでIMF体制のもとでも、過渡期の措置として為替管理による輸入制限は容認された。
ヨーロッパで貿易・為替の自由化が本格化したのは、経済復興が終わった1950年代に入ってからである。1948年にマーシャル・プランの受け入れ機構として発足したOEEC(ヨーロッパ経済協力機構)は、まず加盟諸国間の貿易自由化に着手し、50年代にはドル地域との間の自由化を進めることを申し合わせた。こうしてヨーロッパ諸国は、58年には通貨の交換性の回復を行い、60年に主要諸国の域内貿易の自由化率は90%を超え、対ドル地域の自由化率も80%台を達成した。OEECは61年にOECD(経済協力開発機構)に改組されて、貿易の自由化だけではなく、さらに資本の自由化も推進した。
このような海外の情勢を反映してわが国でも貿易・為替の自由化の気運が高まり、1960年代に入って自由化は大きく進展した。戦後、民間貿易再開後のわが国の貿易は、「外国為替及び外国貿易管理法」によって、輸入については外貨予算制度のもとで輸入品を自動承認制品目・自動割当制品目・割当制品目に区分し、それぞれの枠内で輸入を承認するという方式をとってきた。貿易自由化は、外貨の割当制から自動割当制あるいは自動承認制へ移すという形で行われ、貿易自由化率は、60年(昭和35)には40%であったが、62年には80%台、63年には90%台へと上昇し、また貿易以外の為替取引の面でも、海外渡航の規制緩和や非居住者自由円勘定の設定が実施されるなど、自由化が進展した。そして64年、わが国のIMF8条国への移行に伴って、外貨予算制度は廃止された。残存輸入制限品目は、70年には90品目、86年には23品目にまで減少した。その後、自由化の進行は鈍化したが、93年(平成5)のウルグアイ・ラウンド交渉の合意によって、残存輸入制限は、コメを除いて廃止され、関税化された。
1998年に施行された「外国為替及び外国貿易法」(改正外為法)により、為替業務は完全に自由化された。1999年にはコメの輸入制限も廃止、関税化された。
[志田 明]