赤坂宿(読み)あかさかしゆく

日本歴史地名大系 「赤坂宿」の解説

赤坂宿
あかさかしゆく

[現在地名]大垣市赤坂町・赤坂東町

杭瀬くいせ川右岸、金生きんしよう(赤坂山)の南麓に位置する。中世には東山道沿いの宿駅で、現赤坂町中部に比定されるが、江戸時代には中山道の宿場町として栄え、杭瀬川の赤坂河岸開設により現赤坂東町にまで及んでいる。鎌倉時代以降、同じく東山道の宿駅であった青墓あおはかが衰退するのに代わって発展していった。鎌倉期の日記文学「とはずがたり」に、作者である二条が正応二年(一二八九)東国への旅の途中、赤坂宿に泊まり、宿の遊女との歌のやりとりの場面が記されている。これより以前の「東関紀行」には、仁治三年(一二四二)作者源親行が東国に旅する途中「くゐぜ川」(株瀬河)に泊まったことがみえているが、株瀬くいぜ河の宿は当宿の前身(ただし両宿の間には距離の隔たりがある)をさしていると考えられる(新撰美濃志)

太平記」巻一九(青野原軍付嚢沙背水事)によると、暦応元年(一三三八)一月二八日、奥州から西上した南朝方の北畠顕家の軍勢は、赤坂付近の青野原あおのがはらを主戦場に、室町幕府軍の高師冬や土岐頼遠らの軍勢と合戦に及んでいる。顕家軍に参加した延元三年(一三三八)三月日の国魂行泰軍忠状(大国魂神社文書)には「美濃国阿時河(足近)赤坂合戦」、幕府軍の今川範国の手にあった山城国御家人の建武五年(一三三八)二月六日の松井助宗軍忠状(土佐国蠧簡集残篇)には「今年建武五正月二十八日、美濃国赤坂北山并西縄手合戦」とみえる。足利尊氏はこの戦いで顕家軍が滅んだと九州地方の武士に宣伝したらしく、九州探題一色範氏(道猷)や筑前・豊前・肥後三ヵ国の守護少弐頼尚による施行状など(同年二月一七日「一色道猷施行状」武雄神社文書・同年同月一六日「少弐頼尚遵行状」岡本文書など)の文中に引かれる同年二月三日の足利尊氏御教書には「陸奥前国司顕家卿已下凶徒、於下津・赤坂被討取」と記されていたらしい。

赤坂宿
あかさかじゆく

[現在地名]音羽町赤坂

東海道、江戸より七六里二五町四五間、東の御油ごゆ宿(現豊川市)へ一六町、西の藤川ふじかわ宿(現岡崎市)へ一里半七町の宿。仁治三年(一二四二)八月、「東関紀行」に「矢矧といふ所をいでて、みやぢ山こえ過ぐるほどに、赤坂という宿あり」として、赤坂の宿の名がみえる。また「海道記」には貞応二年(一二二三)八月九日のこととして「矢矯ヲ立テ赤坂ノ宿ヲ過グ。昔此宿ノ遊君、花齢、春コマヤカニ、蘭質、秋カウバシキ者アリ」などと記し、「源平盛衰記」の「内大臣関東下向附池田宿遊君歌の事」に「矢作宿をも打過ぎて宮路山をも越えぬれば、赤坂宿と聞えけり。三河入道大江定基が、此の宿の遊君力寿と云ふに後れて、真の道に入る事もあらまほしくや思召しけん」と記し、赤坂宿の遊女のことを伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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