日本歴史地名大系 「音羽町」の解説 音羽町おとわちよう 愛知県:宝飯郡音羽町面積:二九・一七平方キロ東から北にかけて豊川市と額田(ぬかた)郡額田町、西は蒲郡市、南は御津(みと)町に接する。東方に標高四一一メートルの観音(かんのん)山、萩坂(はぎさか)峠、北に標高三六五・二メートルの京(きよう)ヶ峰(みね)、西に標高四五四・二メートルの五井(ごい)山、標高三六三・五メートルの御堂(みどう)山、南に標高三六一メートルの宮路(みやじ)山の山々があり、中央を音羽川とその支流山陰(やまかげ)川が流れる。流域に長沢(ながさわ)・赤坂(あかさか)・萩(はぎ)の集落がある。町域は「和名抄」所載宝飯郡宮道(みやち)郷(刊本)に属すことは、宮道(みやじ)天神・宮路山などの所存するところから諸説の一致するところである。 音羽町おとわちよう 北海道:渡島支庁函館市旧函館区地区函館音羽町[現在地名]函館市若松町(わかまつちよう)・大手町(おおてまち)明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際に成立した町(「事業報告」第一編)。亀田(かめだ)半島と函館山を結ぶ陸繋部に位置し、近世末期からの市街地拡張で町場となったところで、若松町の東側に開けた町である。明治九年の現住戸口は一〇七戸・三七〇人(函館支庁管内村町別戸口表)。同二九年に地蔵(じぞう)町にあった地蔵堂が移転、高龍(こうりゆう)寺音羽法務所となった。同三〇年の戸数二五四・人口九八七(伊藤鋳之助文書)。 音羽町おとわちよう 京都市:東山区建仁寺門前音羽町東山区大黒町通五条上ル大黒町(だいこくまち)通(耳塚(みみづか)通)に位置。北は音羽町辻子(おとわちようのずし)。清水寺音羽(きよみずでらおとわ)の滝(たき)の下流がこの付近を流れていたので、この町名がおこる。開町時期は明らかでないが下京新町巽大仏組に加入しており、市街化の早期に行われたことがうかがえる。文政三年(一八二〇)下京軒役分割帳(占出山町有文書)大仏組の項の筆頭に「耳塚通五条上ル 音羽町 廿七軒」とみえ、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」も「巽大仏組」とする。 音羽町おとわちよう 東京都:中央区旧日本橋区地区音羽町[現在地名]中央区日本橋一丁目青物(あおもの)町の南に位置する東西に続く片側町。西は通(とおり)一丁目新道、東は本材木(ほんざいもく)町二丁目。元禄三年(一六九〇)に埋立てられた楓(もみじ)川の入堀跡に起立した(沿革図書)。享保年中江戸絵図には青物町と南の佐内(さない)町の間の入堀跡に音羽町と記載がある。安永三年小間附町鑑によれば京間三六間九寸五分、うち二四間九寸五分は南大工(みなみだいく)町切地の代地で、同町の国役大工三七〇人分の一部を賃銀割合で負担した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「音羽町」の意味・わかりやすい解説 音羽町おとわちょう 東京都文京区の南西部にある一地区。東京地下鉄有楽町線、首都高速道路が通じる。目白台と小日向(こびなた/こひなた)台の間の弦巻(つるまき)川の谷にあり、かつて鼠(ねずみ)ヶ谷と称した。護国寺の門前町として繁栄し、女官音羽局(つぼね)に給した地、または京都の清水(きよみず)寺(音羽ノ滝がある)に模した護国寺にあやかって京の地名をつけたという説がある。江戸末期は遊女屋、料理屋が多く江戸有数の繁華街だったといわれる。東の崖(がけ)上に建つ鳩山一郎(はとやまいちろう)元首相邸鳩山会館は音羽御殿の名で知られ、西側に講談社がある。[沢田 清] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by