出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
政治運営の公正を期すため,政府は特定の政党を特別扱い(与党化・優遇・敵視)せずに,全政党と等距離を保つべきであるとする政治スタイル。立憲政治の開始前後から大正期にかけて,おもに藩閥・官僚閥が主張したもので,1889年(明治22)の黒田清隆・伊藤博文の超然主義演説からきている。全政党の政権からの排除をさすことが多いが,藩閥指導者は黒田の功臣登用や寺内正毅(まさたけ)の臨時外交調査委員会委員の人選にみるように,全政党の政権参加・関与もこの一類型と考えており,有産有識者を基礎とする穏健政党との提携を許容する者もあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…他面で陸海軍統帥権が帷幄(いあく)上奏として内閣外部に残されたことや,〈天皇親臨して重要国務を諮詢〉する枢密院が別途創設されたことは,89年の〈内閣官制〉により首相権限が縮小され,国務大臣平等輔弼主義が定着したことと並んで,内閣を内外から制約する潜在要因となる。国会開設後の内閣運営も,イギリスよりはプロイセンを範とし,天皇の内閣は議会・政党に対し超然たるべしとの〈超然主義〉〈帝室内閣〉論が政府を支配した。このため天皇の意向を考慮しつつ,薩長閥の均衡と交替を基調に組閣や内閣運営を行う体制が続いた。…
…すなわち,木戸(1877),大久保(1878)の没後は,岩倉と結んだ伊藤および井上馨,山県有朋(ともに長州),西郷従道,黒田清隆,松方正義(以上,薩摩)らの薩長出身者によって政府は牛耳られ,自由民権運動はこれを〈有司専制〉と称して攻撃し,また,初期議会における民党も,この藩閥政府と対決しようとした。議会における民党の優勢に対し,藩閥政府は〈常に一定の方向を取り,超然として政党の外に立つ〉という,いわゆる超然主義を唱えた。しかし,1894‐95年の日清戦争以後は,藩閥勢力も政党の役割を無視することができず,第2次伊藤内閣は,95年,公然と自由党と提携し,翌96年,第2次松方内閣には大隈が進歩党を率いて入閣し(松隈内閣),さらに98年にいたっては,大隈と板垣によるいわゆる隈板内閣が成立した。…
※「超然主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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