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寺内正毅 てらうち まさたけ

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美術人名辞典の解説

寺内正毅

元帥陸軍大将・伯爵。山口県生。長州藩士宇田多正輔の三男として生まれ、のちに寺内勘右衛門の養子となる。戊辰戦争に初陣し、明治年陸軍少尉に任官後要職を歴任し、初代教育総監・第一次桂内閣の陸軍大臣に任じられた。大正5年元帥府に列せられ、同年首相となった。大正8年(1919)歿、68才。

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デジタル大辞泉の解説

てらうち‐まさたけ【寺内正毅】

[1852~1919]軍人・政治家。元帥・陸軍大将。山口の生まれ。教育総監・陸相・初代朝鮮総督を歴任ののち、大正5年(1916)首相となったが、同7年に米騒動で総辞職。
[補説]容姿が似ていたことと、立憲政治を行わない非立憲(ヒリッケン)内閣と揶揄(やゆ)されたことから、ビリケン宰相と呼ばれた。→ビリケン

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百科事典マイペディアの解説

寺内正毅【てらうちまさたけ】

明治・大正の軍人,政治家。元帥,陸軍大将。長州萩藩士の子。五稜郭の戦大村益次郎に認められ,大村の推挙で大阪兵学寮に入り,1871年少尉。以後陸軍士官学校長,教育総監,参謀本部次長を歴任し,1902年第1次桂太郎内閣の陸相。
→関連項目朝鮮総督府日韓併合原敬内閣山県有朋

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

寺内正毅 てらうち-まさたけ

1852-1919 明治-大正時代の軍人,政治家。
嘉永(かえい)5年閏2月5日生まれ。寺内寿一(ひさいち)の父。母方の寺内家をつぐ。明治35-44年陸相をつとめ,この間の39年陸軍大将。43年初代朝鮮総督をかねる。大正5年元帥となり超然内閣を組織するが,シベリア出兵による米騒動などで,7年総辞職した。大正8年11月3日死去。68歳。周防(すおう)(山口県)出身。本姓は宇多田。

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朝日日本歴史人物事典の解説

寺内正毅

没年:大正8.11.3(1919)
生年:嘉永5.閏2.5(1852.3.25)
明治大正期の陸軍軍人,政治家。山県有朋,桂太郎に連なる長州閥の巨頭。陸軍元帥寺内寿一の父。長州(萩)藩の下級武士宇多田正輔と猛子の3男,母方の寺内家を継ぐ。戊辰戦争に従軍したのち,明治3(1870)年下士官となり,西南戦争(1877)には大尉で出征,田原坂(熊本県植木町)の激戦で負傷し右腕の自由を失い,その後は士官教育や軍政の分野で活躍する。フランス駐在後,陸軍士官学校長,第1師団参謀長,参謀本部第1局長などを歴任し,日清戦争(1894~95)では大本営運輸通信長官を務めた。戦後,初代教育総監,中将に進んで参謀本部次長,35年には第1次桂太郎内閣の陸軍大臣に就任。日露戦争(1904~05)でも陸相として戦争指導に当たる。第1次西園寺公望内閣,第2次桂内閣でも陸相を務め,9年半の在任中陸軍の諸制度がほぼ完備された。39年に大将,43年には韓国統監を兼任して日韓併合に当たり,初代朝鮮総督に就任,5年間で朝鮮統治の基礎を固めた。44年伯爵,大正5(1916)年元帥となったのち,「挙国一致」を標榜して組閣したが,政党に基礎を置かない超然内閣であったため「非立憲」と批判された。中国の段祺瑞政権に政治借款(寺内の私設使節西原亀三の名をとり,「西原借款」という)を供与してその武力統一政策を援助したが成功せず,ロシア革命(1917)に対して7年8月に開始されたシベリア出兵も日米共同出兵の枠を超えるに至った。出兵によって引き起こされた米騒動の責任をとって,7年9月総辞職。<参考文献>黒田甲子郎編『元帥寺内伯爵伝』

(戸部良一)

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防府市歴史用語集の解説

寺内正毅

山口市出身。大楽源太郎[だいらくげんたろう]の西山書屋[せいざんしょや]で学び、陸軍の軍人になりました。1916年(大正5年)総理大臣になりましたが、米の激しい値上がりに反発して全国的に発生した米騒動[こめそうどう]によって批判の声が高まり辞職しました。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

てらうちまさたけ【寺内正毅】

1852‐1919(嘉永5‐大正8)
元帥陸軍大将,政治家。長州藩士宇多正輔の三男に生まれ,のち母方の寺内家を継ぐ。寺内寿一は長男。維新期御楯隊に入り第2次幕長戦争に参加,のち整武隊として箱館戦争に出陣。維新後山田顕義の推挙でフランス式歩兵術を修め,1871年(明治4)少尉に任官。85年から87年までフランスに留学。その後士官学校長,教育総監,参謀本部長などを歴任。1902年第1次桂太郎内閣の陸軍大臣となり,第1次西園寺公望,第2次桂内閣に留任。

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大辞林 第三版の解説

てらうちまさたけ【寺内正毅】

1852~1919) 政治家。陸軍大将・元帥。長州藩出身。第一次桂内閣に入閣、以後陸相を歴任。1910年(明治43)初代朝鮮総督。16年(大正5)組閣して、シベリア出兵を断行、世論の批判を受け、米騒動により総辞職した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寺内正毅
てらうちまさたけ

[生]嘉永5(1852).5.25. 長門
[没]1919.11.7. 神奈川,大磯
陸軍軍人,政治家。山県有朋桂太郎に次ぐ長州閥の巨頭とされた。長州 (山口) 藩士宇田正輔の3男として生れ,母方の寺内家の養子となる。戊辰戦争に従軍し,戦後大坂兵学寮で学び,明治4 (1871) 年陸軍少尉。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寺内正毅
てらうちまさたけ
(1852―1919)

元帥・陸軍大将、政治家。嘉永(かえい)5年2月5日長州藩士宇多田正輔(しょうすけ)の三男に生まれ、のち母方の寺内家の養嗣子(ようしし)となる。幕末期、幼少にして御楯(みたて)隊に入り、第二次長幕戦争に参加、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には箱館(はこだて)まで転戦。維新後山田顕義(やまだあきよし)の勧めでフランス式歩兵術を修め、新政府の軍人として累進。西南戦争では近衛連隊(このえれんたい)の中隊長として出陣、右手に傷を受けその自由を失う。1882年(明治15)フランス留学、各国軍事制度を視察して1886年帰国。その後士官学校長、日清(にっしん)戦争時には軍輸通信長官、戦後は教育総監、参謀次長を歴任、1902年(明治35)第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の陸相となり、第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)、第二次桂内閣に留任。1906年には陸軍大将、翌1907年子爵を授けられた。1910年には陸相のまま韓国統監を兼任、同年韓国併合を行って初代朝鮮総督となり、武断政治をもって朝鮮統治を行った。1911年伯爵に昇叙、1916年(大正5)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の後を受けて内閣総理大臣となり、超然内閣を組織したが、1918年米騒動によって内閣を総辞職。約1年後の大正8年11月3日病没。山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎に次ぐ長州軍閥の巨頭として軍政に力を発揮したが、その性格はきちょうめんで、重箱の隅をつつくような細かいところがあり、官僚タイプの軍人であった。長男の寿一(ひさいち)も元帥・陸軍大将。[由井正臣]
『黒田甲子郎編『元帥寺内伯爵伝』(1920・同伝記編纂所) ▽山本四郎編『寺内正毅日記――1900~1918』(1980・京都女子大学) ▽黒田甲子郎編『伝記叢書40 元帥寺内伯爵伝――伝記・寺内正毅』(1988・大空社) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書9 寺内正毅』(2005・ゆまに書房)』

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世界大百科事典内の寺内正毅の言及

【シベリア出兵】より

…この提案をうけた日本側でも出兵論議が高まったが,日本政府の態度は連合国の出方を見守るという方針であった。革命直後から寺内正毅内閣は,ロシア革命の圧殺,東部シベリアへの日本の勢力拡大,中国本土への圧力強化を企図しており,とくに陸軍参謀本部では〈居留民の保護〉を名目に,沿海州から北満(中国東北)方面への日本軍派遣を計画していた。政府内の出兵賛成論者は元駐露大使の本野一郎外相で,これに反対したのは外交調査会のメンバーである原敬や牧野伸顕であり,ロシア革命の日本への影響を憂慮する寺内首相や元老山県有朋もアメリカの出方を重視し出兵には慎重であった。…

【日韓併合】より

…この条約によって1392年から続いてきた朝鮮王朝(李朝)は滅亡した。植民地統治機関の朝鮮総督府が置かれ,寺内正毅が初代総督となった。併合前の愛国啓蒙運動や義兵闘争によって強められた朝鮮人の民族意識をおしつぶすために,寺内はきわめて暴力的な統治方式を採用した。…

【ビリケン】より

…幸運をもたらすマスコットとされ,日本には10年に伝えられ,とくに花柳界で金運招福の縁起物とされた。16年に総理大臣となった寺内正毅がこれに似た頭や顔をしていたのでビリケン首相と呼ばれた。【斎藤 良輔】。…

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