趙高(読み)チョウコウ

デジタル大辞泉 「趙高」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐こう〔テウカウ〕【趙高】

[?~前207]中国宦官かんがんちょう河北省)の人。始皇帝死後丞相李斯りしと謀り胡亥こがいを2世皇帝に擁立。のち李斯を殺し丞相となって権力を振るい、胡亥を殺し子嬰しえいを帝としたが、子嬰によって殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「趙高」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐こうテウカウ【趙高】

  1. 中国、秦の宦官(かんがん)。始皇帝の死後、丞相の李斯(りし)と謀って、始皇帝の長子扶蘇を殺し、次子の胡亥(こがい)を二世皇帝とした。のち、李斯、二世皇帝をも殺して、子嬰を位につけ、権力をふるったが、子嬰に一族ともども殺された。馬を鹿だと無理に言って、この反応敵味方を判別した故事は有名。前二〇七年没。

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改訂新版 世界大百科事典 「趙高」の意味・わかりやすい解説

趙高 (ちょうこう)
Zhào Gāo
生没年:?-前207

中国,秦の姦臣。趙の王室遠縁にあたるというが,身分は卑賤で秦室に仕える宦官であった。始皇帝に抜擢されて宮中の車馬係となったが,帝が死ぬと丞相の李斯りし)と陰謀をめぐらし,遺言を改竄かいざん)して長子の扶蘇(ふそ)と将軍蒙恬(もうてん)を死罪にし,末子の胡亥を2世皇帝にたて,過酷な法による政治を行った。さらに李斯を処刑し代わって国政を執るや,2世皇帝をも脅迫して自殺に追いやったが,ついで即位した子嬰(しえい)(始皇帝の孫)によって殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「趙高」の意味・わかりやすい解説

趙高
ちょうこう
(?―前207)

中国、秦(しん)の宦官(かんがん)。戦国時代の趙王の遠属であったが、宦官の身となり秦(しん)の始皇帝に仕えた。中車府令として始皇帝の末子胡亥(こがい)の世話をしていたので、紀元前209年始皇帝が死去すると、丞相李斯(じょうしょうりし)とともに長子扶蘇(ふそ)を抑え、胡亥を二世皇帝とする謀略を実行した。その後、李斯を殺して丞相となる。二世皇帝に対しても、シカをウマと偽って献じたにもかかわらず、臣下が趙高の権勢を恐れて黙認するのをみて二世皇帝も殺してしまう。しかし、のちに即位した子嬰(しえい)に殺された。趙高が権力を握ったころは、もうすでに陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱や項羽(こうう)・劉邦(りゅうほう)らの反秦勢力がおこり、秦も滅亡寸前であった。

[鶴間和幸]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「趙高」の意味・わかりやすい解説

趙高
ちょうこう
Zhao Gao; Chao Kao

[生]?
[没]子嬰3(前207)
中国の秦の始皇帝に仕えた悪臣。初め宦官として始皇帝の側近となり,帝の死後,丞相の李斯 (りし) とともに賢明な太子扶蘇と名将蒙恬 (もうてん) を謀殺して,胡亥 (こがい) を秦二世皇帝に擁立し権力を握った。各地に反乱が起ったなかで李斯を胡亥2 (前 208) 年に殺して丞相となり,さらに多くの将軍や官吏をも殺し,翌年には二世皇帝を自殺させ,二世の兄の子の子嬰 (しえい) を秦王としたが,まもなく子嬰によって一族とともに誅滅された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「趙高」の解説

趙 高
ちょうこう

?〜前207
秦の宦官 (かんがん)
前209年始皇帝の没後,偽詔をつくって始皇帝の末子胡亥 (こがい) を2世皇帝につけ,権力をふるった。のちには胡亥を自殺させ,胡亥の兄の子,子嬰 (しえい) を王としたが,かえって子嬰のために殺された。

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