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中国、秦(しん)の統一に功績のあった法家の政治家。戦国楚(そ)の上蔡(じょうさい)の人。荀子(じゅんし)について帝王の術を学んだが、楚や東方の諸国には天下を統一する望みがなかったので、西の秦に赴いた。丞相呂不韋(じょうしょうりょふい)の食客の身から、秦王政(せい)(後の始皇帝)に仕えることになった李斯は、東国離反の策を進言し、それが成功すると客卿(きゃっけい)(他国出身の大臣)にあげられた。当時、逐客令(ちっきゃくれい)(他国出身者の追放令)が出されたが、李斯が反対論を唱えると廃された。以後、李斯の策は重用され、秦王を助けて天下の統一を実現させたので、丞相の地位についた。郡県制、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)、文字・度量衡の統一などの政策は彼の進言による。始皇帝の死後、趙高(ちょうこう)が末子胡亥(こがい)を二世皇帝にたてる謀略に荷担したが、のちに2人の無道ぶりを非難して投獄され、腰斬(ようざん)の刑で死んだ。
[鶴間和幸]
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?~前210
秦の政治家。楚(そ)の人。荀子(じゅんし)に学ぶ。秦の客卿となり,始皇帝の統一後は丞相(じょうしょう)として統一政策の万般を画策,実施した。始皇帝の死後二世皇帝を擁立したが,讒言(ざんげん)にあって処刑された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…第2は,秦が積極的に他国から移ってきた者をうけ入れ,彼らを利用して内治外交に利用したことである。百里奚,蹇叔,商鞅はすべて他国出身者であり,また統一直前に懸案となる外国人追放令(逐客令)に反対した李斯(りし)の意見書には,秦が他国出身者の功績でいかに発展してきたかが詳しく述べられている。 第3は,秦が春秋時代から戦国時代にかけての社会変動のなかで,いちはやく旧体制から脱皮して新しい国家体制を築きあげたことである。…
…蒼頡が文字を発明したという伝説は,戦国後期の《荀子》にあらわれ,漢代になると黄帝の史官であったという伝説があらわれる。秦始皇帝の宰相であった李斯が,蒼頡の名をとった《蒼頡篇》という初学者向きの字書を作ったが,今は伝わらない。【伊藤 道治】。…
…泰山の山頂で天を祭る封禅(ほうぜん)の儀式を挙行した際に立てたところから,〈封泰山碑〉ともいう。秦の徳をたたえた頌辞を篆書(てんしよ)で刻したもので,丞相の李斯(りし)の書と伝えられ,小篆の典型とされる。《史記》秦始皇本紀にのせる全文は,4字36句の計144字からなり,3句ごとに押韻する。…
…書籍を焼き,学者を坑(あなうめ)して殺すこと。前221年に天下を統一した始皇帝は,法家の李斯(りし)を抜擢し,従来の封建制を廃止して郡県制を施行するなど,徹底した法家思想にもとづく各種の統一政策を実施した。しかしこの法家一色の政治に対しては,他の儒家をはじめとする各学派は反対であり,おのおの公然と自説を主張した。…
※「李斯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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