日本大百科全書(ニッポニカ) 「足尾銅山争議」の意味・わかりやすい解説
足尾銅山争議
あしおどうざんそうぎ
明治・大正期に足尾銅山で起こった三大争議。当時の社会運動にも大きな影響を与えた。
1907年(明治40)争議は、南助松(みなみすけまつ)と永岡鶴蔵(ながおかつるぞう)が組織した大日本労働至誠会(だいにほんろうどうしせいかい)足尾支部が、労働条件改善と、現場係員が坑夫から賄賂を取り請負査定を左右する行為の撤廃などを求める運動を開始、24か条の請願書を決定した。また通洞友子(ともこ)の山中(さんちゅう)委員(友子組織の事業執行役員)が飯場に委任していた箱(はこ)(友子交際金の会計権)の権利を取り戻すことに成功した。請願書提出直前の2月4日、通洞坑内詰所(現場事務所)で坑夫が間代(けんだい)(掘進単価査定額)の是正を強く求めたが全面拒否されたのに怒り、詰所を破壊、翌日には銅山本拠の本山(ほんざん)などにも波及した。南らは坑夫の行動拡大を鎮めたが、5日午前南ら幹部が検束されて無政府状態に陥り、本山では銅山幹部への暴行と放火に発展、壊滅状態になった。暴動は軍隊出動前に終息、直接被害額約28万円、裁判の結果、南ら中心幹部は無罪になった。
1919年(大正8)も坑夫主体の争議で、前半は待遇改善で勝利した。その直後組合幹部の馘首が通告される。組合は馘首反対と飯場制度撤廃を要求、団体交渉で所長から飯場制度撤廃覚書を得たが、その直後から幹部が相次ぎ検束されたため、飯場制度改善などで終結した。
1921年争議は坑夫主体で労働条件改善と職業病ヨロケ対策を要求、会社は大量解雇を通告したため、麻生久(あそうひさし)らも駆けつけ組織的デモや家族大会などで対抗したが力及ばず、団結権の実質保障などで終結した。なおヨロケ病対策は、1925年の総同盟大会で7項目の実行を求める決議を行った。
[村上安正]
『二村一夫著『足尾暴動の史的分析』(1988・東京大学出版会)』▽『村上安正著『足尾銅山史』(2006・随想舎)』