轟城跡(読み)とどろきじようあと

日本歴史地名大系 「轟城跡」の解説

轟城跡
とどろきじようあと

[現在地名]竹野町轟 城山

竹野川左岸、轟集落の南西標高約一四七メートルの山上に所在し、北流する竹野川と西方から竹野川に注ぐ大谷おおたに川に取囲まれている。集落との比高は約一三〇メートル。青葉あおば城ともいう。

〔縄張り〕

城域は広く、東西約二八〇メートル・南北約三二〇メートルあり、標高一四七メートルに位置する主郭を中心にして、三方向に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置している。現在秋葉神社が鎮座している主郭(南北四五メートル・東西二五メートル)は、南西側(裏側)の急斜面を切岸として利用し、北側と南東側に二ヵ所の幅広い坂虎口をもつ。主郭の北側と北西側には大規模な二つの曲輪(二二×三七メートル、四四×二六メートル)で構成する帯曲輪を構築して防御している。主郭と帯曲輪との段差は七―八メートル。帯曲輪の北側にはさらに二段の曲輪(二九×一八メートル、四三×一〇メートル)を構築し、そこから二方向に延びる尾根にそれぞれ堀切・竪堀を設けて尾根筋を遮断している。とくに東尾根には堀切・竪堀の中に放射状に四条の竪堀をつくり、竪堀六条で構成する畝状竪堀を構築している。


轟城跡
とどろきじようあと

[現在地名]川之江市金田町金川

金川かながわ村と上分かみぶん村境の山字轟山とどろきやまにある。轟山は金生きんせい川がとどろき流れる音による山名という。阿波国・土佐国への通路にあたり戦国時代には攻防の拠点の一つとなった。とどろき城とも記される。

西条誌」に「小山也、根の廻り四百七拾六間上五拾四間、絶嶺東西二拾間南北拾八間、(中略)昔信藤氏の居城なりしが周防守正国と云人に至り天正年中陥落す」とある。「伊予温故録」「大西軍記」は、信藤正国の築城で、七世の孫正親の享禄年中(一五二八―三二)に廃城したと記す。「河野分限録」「天正陣実記」などによれば、その後轆城には大西入道道誉がおり、のちに大西備中守元武(阿波国三好郡白地城主)が居城し、宇摩うま郡中に勢力を振るった。


轟城跡
とどろきじようあと

[現在地名]石井町浦庄 下浦

JR徳島線下浦しもうら駅の北側に隣接する平城跡。北および西は飯尾いのお川に面し、低位の河岸段丘様相を示している。城跡は水田や民家となり、遺構は残っていないが、付近に轟池(淵宮池)跡・轟橋跡などの伝承がある。戦国時代に近藤勘右衛門正次および孫太郎(孫九郎とも)正行が居城したといわれる(「古城諸将記」「城跡記」など)。天正九年(一五八一)三好方に属する当城を、土佐の長宗我部元親の先鋒西寺堅済・池内肥前守・野中三郎左衛門尉の軍が囲んだが、十河存保が援軍を出し、さらに夜に入ってから当城の兵二〇騎ほど(五〇余騎とも)も打って出たため元親軍は敗退したという(「昔阿波物語」「三好記」など)


轟城跡
とどろくじようあと

[現在地名]今市市轟 松原

旧日光北街道から南東に入った段丘の山林中に残る。北東と南東の二面が急な崖で、一辺約八〇メートルのほぼ正方形の土塁で囲まれた郭を残す。西側の二面の土塁外には深さ二メートルの水堀跡がある。北西面の土塁は真ん中が切れて石積みが残り、木片が発見されたことから、館の入口と考えられる。築造の時期や城主は不詳。元久二年(一二〇五)畠山重忠の乱ののち、重忠の末子重慶は日光山麓に逃れて隠れていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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