中曾根村(読み)なかぞねむら

日本歴史地名大系 「中曾根村」の解説

中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]伊予三島市中曾根町

嶺北れいほくの東に位置し、法皇ほうおう山脈の山嶺から山麓扇状地にかけての集落。東は上柏かみがしわ村、南は法皇山脈の嶺を境に小川山おがわやま村、西は中之庄なかのしよう村、北は三島みしま村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項に「中曾根村 日損所、柴山有」とみえ、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記には「仲曾禰村」と表記されている。

「和名抄」にみえる宇摩郡山口郷に属したとされる。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡中曾根村明細帳に「福嶋左衛門太輔様御検地と申候 高六百二拾九石八斗八升六合」とあり、江戸時代には幕府領などを経て元禄一一年今治藩領となり幕末に至る。


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]吉見町中曾根

田甲たこう村の東に位置し、旧荒川筋の自然堤防上に細長い集落を形成している。北は大里郡小八ッ林こやつばやし(現大里村)、東は上砂かみずな村。本村の北東、荒川堤外に新田があり、同新田は田甲新田・上砂新田と耕地が交錯している(風土記稿)。小田原衆所領役帳では松山衆の狩野介所領のうちに「四拾貫文 吉見郡中曾祢」がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。慶長一九年(一六一四)の検地水帳(屋敷帳一冊を含み四分冊、中曾根文書)には「吉見郡中曾根村」とあり、同年八月晦日から九月三日までの四日間にわたって検地が行われた。案内者は兵部・勘解由の二人。本田畑・新田畑とも地位は上・中・下の三等級、田畑総反別は三六町六反余。


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]春日部市南中曾根みなみなかそね

新方袋にいがたぶくろ村の南に位置し、古隅田ふるすみだ川沿いの沖積地に立地する。上大増かみおおまし新田に飛地があった。新方袋村境から西の小溝こみぞ(岩槻市)境まで岩槻へ通ずる道が通り、途中越ヶ谷方面への道が分岐する(郡村誌)。埼玉郡岩槻領に属した(風土記稿)。田園簿によれば田二一石余・畑八七石余で、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数三四(本百姓一三・分ケ地一五・水呑六)・人数二〇六。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳では高二六六石余・新田高七三石余、ほかに野銭永三二四文・見取場九町六反余。


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]高岡市中曾根

庄川の東、放生津ほうじようづ潟の南西部に位置し、村の東部を西神楽にしかぐら川、中央部を大石おおいし川、西部を上牧野かみまきの川が南北に流れる。東は金屋かなや村、西は上牧野村。北に三日曾根みつかそね村・四日曾根よつかそね(現新湊市)がある。地名の由来は、中世の曾根保のうちにあたるためという。枝村に西にし村がある。慶長八年(一六〇三)二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)によれば、中そね村の三二石余が改田氏に与えられている。


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]吉川町中曾根

高久たかひさ村の南に位置し、村の西を古利根川、村内中央を二郷半領にごうはんりよう用水が貫流する。元和―寛永期(一六一五―四四)の四点をはじめとして、文久年間(一八六一―六四)までの年貢割付状一五五点が残っており(埼玉県立文書館諸家目録)、また助郷は日光道中越ヶ谷宿に、加助郷小金こがね(現千葉県松戸市)に出役していた(長谷川氏収集文書)。田園簿に村名がみえ、田高五二九石余・畑高八三石余で、幕府領、ほかに野銭永二五文。


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]飯山市大字みどり

外様平とざまだいら西、黒岩くろいわ山の麓にあり、南は中条ちゆうじよう村、北は顔戸ごうど村に接する。黒岩山から南方への尾根の中間で村の西側にあたる山城は二郭と二空堀を有し中小屋なかごや城という。北の平丸ひらまる峠道に対する守備として築かれたものと思われる。黒岩山山頂の城跡より山口城まで、一連の山城群が続いている。

応安三年(一三七〇)上杉朝房が藤井下野入道の所領を安堵した上杉朝房奉書(上遠野文書)に「水内郡常岩南条・後閑・水沢・有尾・中曾禰等」とあるのを初見とする。応永七年(一四〇〇)信濃守護小笠原長秀の市河刑部大輔入道(頼房)への所領安堵状(市河文書)に「中曾根郷内小穴河・平滝」と記し、桑名川くわながわ(現飯山市大字照岡)平滝ひらたき(現下水内しもみのちさかえ村)を含めている。


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]豊科町大字高家たきべ 中曾根

東に中曾根川(旧梓川河床)、西に湧水を集めた流れ堰が流れている。慶安四年(一六五一)検地帳(豊科町役場蔵)によれば、この流れ堰筋にある上・下両鳥羽とば村に流れ、流れ畑の地字がみられ、かつてあずさ川がこの地帯を押し流したことのあることを物語っており、川の洲のような細長い地形をした村である。当村は上中曾根・下中曾根・夫領ぶりよう元町もとまちの集落からなっている。初見は文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳で、「中曾禰分合籾廿弐俵仁枡此代四貫四百文 手執 小祝 与作」とある。慶安四年検地帳によれば、本百姓三四軒、半百姓二軒、門百姓二二軒がみられ、他村に比して門百姓の独立が遅れていることがわかる。


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]久喜市北中曾根きたなかぞね

東は備前前堀びぜんまえぼり川を境に六万部ろくまんぶ村・所久喜ところぐき小河原井こがわらい、南は備前堀川を境にだい三箇さんが(現菖蒲町)の二村と対する。騎西きさい領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地があり(風土記稿)、田園簿によると田高二四二石余・畑高一八二石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高八四〇石余、反別は田方四三町余・畑方五五町一反余、ほかに新開高三三六石余、田方一七町三反余・畑方二二町余があった。元禄郷帳では高一千一九五石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]大垣市中曾根町

杭瀬くいせ川右岸、静里しずさと輪中の南部に位置し、北東は久徳きゆうとく村。中曾禰とも記し、村内を美濃路が通る。「蔭涼軒日録」寛正三年(一四六二)八月二八日条に「勢州慈雲寺領、美濃国中曾禰郷」とみえ、同郷に対しての阿野公熙の押領があった。「政所賦銘引付」文明八年(一四七六)八月二一日条によれば、寛正四年より阿野家領となっている。慶長郷帳では村高七一五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。寛永一〇年(一六三三)より大垣藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田高六六八石余・畑高四一石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高七五一石余。正保元年(一六四四)の家数四二・人数一六三(新修大垣市史)


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]小田原市中曾根

東端の桑原くわはら村境を酒匂さかわ川が流れ、西は飯田岡いいだおか村・堀之内ほりのうち村、南は蓮正寺れんしようじ村、北は足柄上あしがらかみ栢山かやま村と接する。北を富士道が東西に走り、栢山村よりさんそん用水が通じる。正保国絵図に村名がみえる。近世は小田原藩領。貞享三年(一六八六)の村明細帳(県史五)によれば家数三五、うち名主一・組頭三・本百姓一二・無田一七・伯楽一・定使一、人数二〇七(男一〇三・女一〇四)、馬一一、大和柿を産する。


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]鴻巣市西中曾根にしなかそね

下上谷しもかみや村の東、大宮台地の北東部の端にある。赤堀あかぼり川の水源があり、南方下谷しもや村へと流れ、北東を元荒川が流れる。北・西を上谷村に囲まれ、東方下宮内しもみやうち(現北本市)上常光かみじようこう村との間に飛地がある。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。田園簿では田五〇石余・畑八三石余、幕府領。元禄九年(一六九六)には旗本米倉領(「米倉氏領知目録」米倉家文書)


中曾根村
なかそねむら

[現在地名]草加市中根町なかねちよう

槐戸さいかちど村の南にあり、南東は篠葉しのは村。西を綾瀬川が南流し、日光道中が南北に走る。足立郡谷古田やこだ領に属した(風土記稿)。田園簿では田二一三石余・畑一〇石余。江戸期を通じ幕府領。元禄八年(一六九五)検地が施行され、同一〇年の検地帳(草加市史)によれば、田二二町五反余・畑七町四反余・屋敷四反余、藪など計三反余があった。日光道中草加宿の助郷村で、勤高一三九石(享保一一年「草加町助郷帳」大川家文書)


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]新発田市中曾根町一―三丁目・舟入ふないり町二―三丁目・城北じようほく町一丁目・同三丁目・西園にしぞの町三丁目・小舟こふね町三丁目・中曾根

新発田城下の西北、猿橋さるはし村の北に位置する。新発田藩領で、慶長一二年(一六〇七)の給人開田方定納之帳(新発田市史資料)に「中そね之内」「中そね分」などとして多数の記載があり、藩士らによって開かれた田地があった。


中曾根村
なかぞねむら

[現在地名]大里村中曾根

荒川右岸の沖積扇状地扇端部に位置し、北は通殿づうどの川を境に小泉こいずみ村・屈戸くつと村。熊谷往還の脇道が通る。文明三年(一四七一)八月吉日の旦那売券(熊野那智大社文書)によると、橋爪四郎は大里郡先達「中そね玉林坊」などの紀州那智山旦那職一円を東蔵房に料足一二貫で永代売渡している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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