農奴解放令
のうどかいほうれい
ロシア皇帝アレクサンドル2世が発布した農奴解放の勅令。1853~56年のクリミア戦争における敗北は、農奴制ロシアの後進性を白日の下にさらけ出した。革新的官僚や軍人、一部知識人、さらに皇帝自身が、農奴制の廃止を含む根本的な改革の必要性を痛感した。政府は1858年、農民問題総委員会を、翌年1月には法典編纂(へんさん)委員会を発足させた。委員会は1860年10月には法案を作成し、それは若干の修正ののち1861年2月19日皇帝の署名を得て成立し、3月5日発布された。これによりロシア全土で約2300万人の農奴が解放された。農奴は人格的自由を得、土地を分与されたが、分与地に対しては地代の16.67倍にも上る額の支払い義務を負った。また分与地面積は不十分で、地主は一定規準以上の農民保有地を「切り取り地」として自らに確保し、農民には条件の悪い土地を分与した。農民は発布直後の1861年3~4月、ロシア各地で暴動を起こすことによって、解放令に対する自分たちの態度を表明した。解放令はロシアの資本主義発展のための条件をつくりだしたが、その不徹底性により、19世紀後半の社会的矛盾を激化させることになった。
[栗生沢猛夫]
『菊地昌典著『ロシア農奴解放の研究』(1964・御茶の水書房)』▽『ザイオンチコーフスキー著、増田冨寿・鈴木健夫訳『ロシアにおける農奴制の廃止』(1983・早稲田大学出版部)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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農奴解放令[ロシア]
のうどかいほうれい[ロシア]
Obshchee polozhenie o krest'yanakh, vyshedshikh iz krepostnoi zavisimosti; Emancipation Act of 1861
1861年3月3日 (旧暦2月 19日) ,皇帝アレクサンドル2世によって裁下された農奴の解放に関する条令。アレクサンドル2世は,国の近代化,富国強兵への第1歩として農奴解放を急務とし,57年1月に秘密委員会を設置した。 58年初頭に秘密委員会が改組されてできた総委員会も,59年3月につくられた法典編纂委員会も,幾度か計画を後退させ,発布された条令は農民の期待からほど遠いものとなった。解放の実施は,(1) 63年3月3日までの農民と地主との間に約定証文を作成するまでの期間,(2) 約定証文に従って地主に年貢支払いや諸義務を行うとともに,買戻した土地の支払いを終了するまでの「一時的義務負担農民」と呼ばれる時期,(3) それ以後の完全な自由な時期と,3つの時期に分けて行われたが,(2) の時期の終了については特別な定めがなく,農民が政府の援助によって買戻しを終えても,今度は国家に多額の負債をかかえ込むこととなった。買戻し義務が実際に取消されたのは 1905年の革命ののちにおいてであった。この解放令によってロシアの 2240万の農奴が法的に自由となったが,農民の諸義務は個人にではなく共同体の連帯責任とされたため,村を離れることも共同体の発行する旅券がなければできず,その後の農民の自由な経営もはばまれた。 (→農奴制)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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農奴解放令【のうどかいほうれい】
1861年ロシア皇帝アレクサンドル2世の発した宣言および関連諸政令の総称。これにより身分的規制は解消されたが,土地取得は有償であった。そのため,農民の大半は債務を負って地主に対する隷属が強められ,また離村して都市労働者となるものも多かった。
→関連項目クリミア戦争|農奴
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の農奴解放令の言及
【農民解放】より
…しかしこれは強制的ではなかったので,農民解放の完結は48年の革命を経たのちの50年3月の法律(物的負担の有償強制廃棄と地代銀行による償金支払の肩代り)を待たなければならなかった。(3)オーストリアでは18世紀の啓蒙絶対君主ヨーゼフ2世が早くも1781年に農奴解放令を出しているが,フランス革命以後の反動期に改革は停滞し,ようやく1848年の革命で遂行された(1848年9月の法律。隷農制は無償,物的負担は有償廃棄)。…
※「農奴解放令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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