改訂新版 世界大百科事典 「農山漁村経済更生運動」の意味・わかりやすい解説
農山漁村経済更生運動 (のうさんぎょそんけいざいこうせいうんどう)
1932年から実施された政府の昭和農業恐慌対策であり,農村救済運動として大々的に取り組まれた。当時は農業恐慌によって農村は娘売り,子売りをして生活費を得,肥料にするほしか(干鰯)やぬかを常食としている状態であった。また全国の欠食児童は20万人を超えていた。このような状況に対して,農本主義者を中心に農村救済請願運動が全国的に展開された。それは,農家負債3ヵ年据置き,肥料資金反当り1円補助,満蒙移住費5000万円補助の請願署名運動で,第62臨時議会(1932年6月)に向けて行われた。続いて8月には第63臨時議会が開かれ時局匡救(きようきゆう)予算(1億7000万円)が提出された(この議会は時局匡救議会と呼ばれる)。32年9月,農林省に経済更生部が新設され,10月には〈農山漁村経済更生計画ニ関スル件〉の農林省訓令が発表された。〈農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神ヲ活用シ其ノ経済生活ノ上ニ之ヲ徹底セシメ以テ農山漁村ニ於ケル産業及経済ノ計画的組織的刷新ヲ企図セザルベカラズ〉の訓令に見られるように,更生運動の特徴は,部落の〈隣保共助ノ精神〉を振興して農村経済の〈計画的・組織的刷新〉を図るところにあった。その中心には産業組合がすえられ,部落の下部組織としては農事実行組合が組織された。また〈隣保共助〉の実をあげるために精神更生が強調された。村の青年団,軍人分会,小学校などが動員され,自力更生,生活改善,勤倹貯蓄,納税奨励など共同体の解体の危機をくいとめるイデオロギーが高唱された。36年以降には満州農業移民もつけ加えられた。1932年以降,農林省は毎年1000町村を経済更生村に指定し,1町村当り100円の低額補助金を支出することとし,40年までに全国町村の81%(9153町村)が指定村となった。
農村で経済更生運動の中軸を担った産業組合は,この時期に急速に拡充された。全国の産業組合の農家組織率は,1932年の62%から40年には89%に達した。この間に,産業組合の貯金高は4倍に,販売高は9倍に,購買高は10倍にそれぞれ著増した。この産業組合(村)-農事実行組合(部落)のラインを中核とした経済更生運動を推進するために登用されたのが,中心人物と中堅人物である。中心人物とは,大部分が村長,小学校長,産業組合長,農会技術員であったが,彼らの階層は,農業経営の改善をみずから指導しうる耕作地主が多かった。中心人物のもとで更生運動を実践する中堅人物には,新たに自作・自小作が多く採用された。このことは,農業生産力の実質的担当層である中農のエネルギーを産業組合-農事実行組合のもとに統合し,彼らにまで支配の網をかぶせることなしには,もはや農村共同体の解体の危機を防ぎようがなかったことを意味する。経済更生運動は,財政的助成を極力抑えた政府のもっとも安上りな恐慌対策であるとともに,産業組合-農事実行組合の組織化を通じて官僚統制の基軸ともなり,総力戦体制への地ならしを果たしていった。この組織化により,政府は昭和恐慌下の農村危機を回避し,さらには農村を戦争とファシズムの社会的・経済的基盤としてうち固めた。
執筆者:大門 正克
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