精選版 日本国語大辞典 「近衛前久」の意味・読み・例文・類語
このえ‐さきひさ【近衛前久】
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(湯川敏治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
戦国・安土(あづち)桃山時代の公家(くげ)。稙家(たねいえ)の長子。1540年(天文9)元服、将軍足利義晴(あしかがよしはる)の偏諱(へんき)を受け晴嗣(はるつぐ)と称す。41年従三位(じゅさんみ)、45年権大納言(ごんだいなごん)。46年後奈良(ごなら)天皇の猶子(ゆうし)となる。47年内大臣、53年右大臣、翌年関白・左大臣となり、翌々年前嗣(さきつぐ)と改名した。59年(永禄2)越後(えちご)から上洛(じょうらく)した長尾景虎(かげとら)(上杉謙信(けんしん))と意気投合するところあって、景虎の関東平定を促進し、その上洛を促して畿内(きない)の安定を図りたいという希望を抱き、翌年9月関白の現職のまま越後に下り、さらに関東に赴いた。しかし実現困難なことを知らされ、62年8月むなしく帰京。この年前久と改名。68年織田信長が足利義昭(よしあき)を擁して上洛するや、義昭と隙(げき)を生じて出奔。摂津ついで丹波(たんば)にあって反信長勢力と通じたが、75年(天正3)6月信長の勧言をいれて帰洛。以後信長とは親密で、その要請により九州に下向し、大友・島津氏らの和議を図り、また本願寺との和睦(わぼく)などにも尽力した。82年2月太政(だいじょう)大臣。6月に本能寺の変が起こると、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉よりある嫌疑を受け、徳川家康を頼って遠江に下向。また出家して龍山と号した。翌年家康の斡旋(あっせん)により帰洛。晩年は東山慈照寺(じしょうじ)の東求堂(とうぐどう)に隠棲(いんせい)。慶長(けいちょう)17年5月8日没す。年77。和歌、連歌に優れ、書をよくし、有職故実(ゆうそくこじつ)、馬術、放鷹(ほうよう)などにも精通し、当代一流の文化人であった。
[橋本政宣]
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戦国時代末期の公卿,関白。稙家の子。初名晴嗣,前嗣。1561年(永禄4)前久と称し,82年(天正10)竜山と号した。内大臣,右大臣を経て1554年(天文23)関白となったが,将軍足利義輝の姻戚であったため武家とも交際があり,60年関白現職のまま長尾景虎(上杉謙信)の分国越後に下向し,ついで景虎とともに関東に入り,古河(こが)城に拠った。しかし景虎の関東経略が停滞したので,62年京都に帰った。足利義昭が上洛して将軍となると京都を離れ,一時薩摩の島津氏のもとにあったが,この関係で島津・織田両氏の間を斡旋し,また本願寺顕如と織田信長との和平に尽力するなど,織田政権に協力的であった。しかし本能寺の変後は再び京都を離れて徳川家康のもとに赴き,やがて帰京したが晩年は失意の状態にあった。前久は当代有数の教養人で,しかも地方に下向したため中央文化の地方への伝播に多くの寄与をしている。
執筆者:岩沢 愿彦
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