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近衛前久 このえ さきひさ

美術人名辞典の解説

近衛前久

安土桃山・江戸前期の公卿。稙家の子。初名は晴嗣・前嗣、法号を東求院龍山関白左大臣織田信長が奉じた将軍足利義昭との間に隙を生じ出奔、大坂・丹波を流浪する。のち信長の奏請により帰洛、九州に下って島津・大友・相良ら諸氏間の和議を謀り、また信長と本願寺との調停をはかった。本能寺の変後出家、晩年は徳川家康を頼って慈照寺に隠棲した。歌道・神道・暦学・書道・連歌等に精通し、その地方遍歴を通じて都文化の地方への普及に大きく寄与した。慶長17年(1612)歿、77才。

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デジタル大辞泉の解説

このえ‐さきひさ〔コノヱ‐〕【近衛前久】

[1536~1612]安土桃山時代の公卿。幼名、晴嗣、のち前嗣。法名竜山。歌道・書道・暦学・有職故実などにすぐれ、文化の地方への普及に貢献した。

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百科事典マイペディアの解説

近衛前久【このえさきひさ】

戦国末期の公卿。稙家(たねいえ)の子。初め晴嗣,前嗣,1561年以後前久と称する。1554年関白となる。1559年長尾景虎上杉謙信)と盟約を結び,翌年景虎の関東経略を支援するため関白現職のまま越後へ下り,さらに関東に入った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

近衛前久 このえ-さきひさ

1536-1612 戦国-織豊時代の公卿(くぎょう)。
天文(てんぶん)5年生まれ。近衛稙家(たねいえ)の子。天文23年関白,氏長者となり,同年左大臣に転じる。戦乱のなか織田信長ら各地の戦国大名をたよって流浪し,信長の死後に出家。和歌,書画にすぐれ,有職(ゆうそく)故実に通じ,中央文化の地方への普及に貢献した。慶長17年5月8日死去。77歳。初名は晴嗣,のち前嗣。号は東求院,竜山。

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朝日日本歴史人物事典の解説

近衛前久

没年:慶長17.5.8(1612.6.7)
生年:天文5(1536)
安土桃山時代の公家。父は近衛稙家。母は久我通言の養女源慶子。後水尾天皇の外祖に当たる。初名は晴嗣。弘治1(1555)年前嗣と改め,永禄5(1562)年前久と三度改名。右大臣を経て天文23(1554)年関白・氏長者,すぐ左大臣に転ずる。関白在任中の永禄3年,京都の乱れた情勢を憤り,長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後へ下向。ついで関東出陣中の景虎を追い,厩橋(前橋)へ向かう。のち古河に滞在し,景虎と共に越後へ戻る。その目的は景虎を助け上洛を促すことにあったが,果たせず永禄5年帰洛。同11年には将軍足利義昭との間に隙が生じ出奔。大坂,丹波を流浪する。天正3(1575)年織田信長の奏請により帰洛を許されるが,同年すぐ島津義久を頼り薩摩へ下向。同5年まで薩摩に滞在し帰洛。同8年信長の要請に応じ,勅使として本願寺光佐に和睦を勧め,同9年には島津氏と豊後大友氏の和睦を図る。『兼見卿記』は,同10年本能寺で信長が横死したとき,信長の息信孝による前久成敗の風説が流れ,難を恐れて剃髪し嵯峨に隠れたことを伝えている。その後徳川家康を頼り遠江に下り,翌年家康の斡旋で帰洛。その間,島津義久へ書状を送り,将来,薩摩に下向するとの意を伝えているところから,島津氏との交流の深さに加え義久に対する信頼がうかがえる。また島津家には鷹に関する前久の書状が残されており,信長や家康に献上するための鷹を催促するのみならず,自らも所望しているところなど,若いころから放鷹を好んだ前久らしく興味深い。乱世を生き抜いた公家であったが,父から古今伝授を受け和歌や連歌にも通じ,それらの作品も残されている。一字名は「春」。流転の人生にあって,教養人として都文化の地方への普及に寄与した功績は大きい。<参考文献>近衛通隆「近衛前久の関東下向」(『日本歴史』391号)

(湯川敏治)

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世界大百科事典 第2版の解説

このえさきひさ【近衛前久】

1536‐1612(天文5‐慶長17)
戦国時代末期の公卿,関白。稙家の子。初名晴嗣,前嗣。1561年(永禄4)前久と称し,82年(天正10)竜山と号した。内大臣,右大臣を経て1554年(天文23)関白となったが,将軍足利義輝の姻戚であったため武家とも交際があり,60年関白現職のまま長尾景虎(上杉謙信)の分国越後に下向し,ついで景虎とともに関東に入り,古河(こが)城に拠った。しかし景虎の関東経略が停滞したので,62年京都に帰った。足利義昭が上洛して将軍となると京都を離れ,一時薩摩の島津氏のもとにあったが,この関係で島津・織田両氏の間を斡旋し,また本願寺顕如と織田信長との和平に尽力するなど,織田政権に協力的であった。

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大辞林 第三版の解説

このえさきひさ【近衛前久】

1536~1612) 安土桃山時代の公家。号、竜山。詩歌・書に長じた。上杉謙信・織田信長・徳川家康らを頼ってたびたび地方に下り、中央文化の地方伝播でんぱに貢献。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近衛前久
このえさきひさ

[生]天文5(1536).京都
[没]慶長17(1612).5.8. 京都
安土桃山時代の公卿。出家して龍山,東求院と号した。父は稙家,子は三藐院信尹 (→近衛信尹 ) 。越後の長尾景虎 (上杉謙信) をたずね,京都に帰って足利義昭と不和になると織田信長に頼った。天正 10 (1582) 年関白,太政大臣となったがまもなく辞し,豊臣秀吉に頼ったが,本能寺の変後不和になり,浜松に徳川家康をたずね,また晩年には子の信尹と不和になるなど不安の一生をおくった。有職故実,暦学,歌道,書道にすぐれていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近衛前久
このえさきひさ
(1536―1612)

戦国・安土(あづち)桃山時代の公家(くげ)。稙家(たねいえ)の長子。1540年(天文9)元服、将軍足利義晴(あしかがよしはる)の偏諱(へんき)を受け晴嗣(はるつぐ)と称す。41年従三位(じゅさんみ)、45年権大納言(ごんだいなごん)。46年後奈良(ごなら)天皇の猶子(ゆうし)となる。47年内大臣、53年右大臣、翌年関白・左大臣となり、翌々年前嗣(さきつぐ)と改名した。59年(永禄2)越後(えちご)から上洛(じょうらく)した長尾景虎(かげとら)(上杉謙信(けんしん))と意気投合するところあって、景虎の関東平定を促進し、その上洛を促して畿内(きない)の安定を図りたいという希望を抱き、翌年9月関白の現職のまま越後に下り、さらに関東に赴いた。しかし実現困難なことを知らされ、62年8月むなしく帰京。この年前久と改名。68年織田信長が足利義昭(よしあき)を擁して上洛するや、義昭と隙(げき)を生じて出奔。摂津ついで丹波(たんば)にあって反信長勢力と通じたが、75年(天正3)6月信長の勧言をいれて帰洛。以後信長とは親密で、その要請により九州に下向し、大友・島津氏らの和議を図り、また本願寺との和睦(わぼく)などにも尽力した。82年2月太政(だいじょう)大臣。6月に本能寺の変が起こると、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉よりある嫌疑を受け、徳川家康を頼って遠江に下向。また出家して龍山と号した。翌年家康の斡旋(あっせん)により帰洛。晩年は東山慈照寺(じしょうじ)の東求堂(とうぐどう)に隠棲(いんせい)。慶長(けいちょう)17年5月8日没す。年77。和歌、連歌に優れ、書をよくし、有職故実(ゆうそくこじつ)、馬術、放鷹(ほうよう)などにも精通し、当代一流の文化人であった。[橋本政宣]

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