暦術や造暦に関する学問で、主として近世の呼称。わが国では602年(推古天皇10)に百済(くだら)から暦書が伝えられ、それを学習したのが始まりで、以来中国の諸王朝で施行された元嘉(げんか)、儀鳳(ぎほう)、大衍(たいえん)、五紀(ごき)、宣明(せんみょう)の諸暦をそのまま使用したため、暦学の主体は、算術的に毎年の頒暦(はんれき)を作成し、陰陽道(おんみょうどう)的暦注を割り付けることにあり、暦道と称されて、算道とほとんど同一視された。暦学の呼称は主として近世に用いられたもので、17世紀初頭から宣明暦や授時(じゅじ)暦の暦書が刊行され、その暦理や暦数が研究されるようになった。一方儒教的立場から、暦学は宇宙の原理に基づく経世済民の術として重視され、治者階級の教養として広く学習されるようになった。1720年(享保5)に漢訳洋書の輸入が緩和されて以後、西洋天文学の成果に基づく暦学が盛んになったが、蘭(らん)学の発展に伴いオランダ語の原書によって直接西洋暦学の受容が行われるようになり、寛政(かんせい)・天保(てんぽう)の改暦を実現した。
[岡田芳朗]
暦の方式・作成のための学問。日本では7世紀頃までに百済(くだら)を通して中国の太陰太陽暦が伝えられ,日・月の天文常数や造暦の規則を記した元嘉暦などの中国暦法が順次施行された。令制では陰陽(おんみょう)寮の暦博士がこれをもとに毎年の暦を作ったが,861年(貞観3)唐の宣明暦採用後800年余り改暦は行われず,また平安中期から暦道は賀茂氏の家業となり,暦学は長く停滞した。江戸時代に入り渋川春海(はるみ)はもとの授時暦を改良した貞享暦を作り,日本人による最初の暦法が施行され,造暦の実務も幕府天文方に移った。江戸中期から漢訳・蘭訳の西洋天文学書が紹介され,その成果をとりいれた寛政暦・天保暦が施行され,ついで明治政府は太陰太陽暦を廃し,1873年(明治6)から現行の太陽暦(グレゴリオ暦)に移行した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…日本古代・中世の暦学。天皇の命令によって暦を作ること,またその技術。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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