改訂新版 世界大百科事典 「運動失調症」の意味・わかりやすい解説
運動失調症 (うんどうしっちょうしょう)
ataxia
運動麻痺がないにもかかわらず,随意運動がうまく行われない状態に対して用いられたことばであるが,その概念をはっきりと定着させたのはデュシェンヌ・ド・ブーローニュGuillaume B.A.Duchenne de Boulogne(1806-75)である。彼は1858年に脊髄癆(せきずいろう)の運動障害について述べ,それが運動麻痺によるものではなく,運動を遂行するにあたって,作動すべきいくつかの筋肉の協調がうまくいかないために生ずることを明らかにした。彼はこの病態に対し運動失調症locomotor ataxiaの語を与えた。次いで20世紀初頭にバビンスキーJosef F.F.Babinski(1857-1932)は,小脳の病変によって生ずる運動障害を綿密に観察し,それが深部知覚障害に基づく脊髄癆の運動失調症とは異なるものであることを強調し,小脳症状としての運動障害に対しては協調障害incoordinationと呼ぶべきであるとした。このため運動失調症という用語を狭義に解釈し,これを後述のような脊髄癆性失調症に対してのみ用いるという立場をとる学者もあるが,今日では随意運動の障害のうち運動麻痺や筋力の低下に基づくものではないものをすべて運動失調症ataxiaと呼ぶことが多い。このような広義の運動失調症には数々の異なった病態が含まれているが,その中で最も主要な位置を占めるのは脊髄癆性失調症,小脳性失調症,および迷路性失調症の三つである。
脊髄癆性失調症tabetic ataxia
関節位置覚,運動覚などの深部感覚の障害によって生ずるものであり,深部感覚の障害されるような病態で共通に認められる。その原因としては脊髄癆が最も古典的なものであるが,ほかにフリードライヒ病Friedreich ataxiaのような脊髄小脳変性症,糖尿病やギラン=バレー症候群のような多発性神経炎または多発性根神経炎,ビタミンB12欠乏症にみられる亜急性連合索変性症,脊髄腫瘍などでも,同様の現象がみられる。下肢に失調症のみられることが多く,起立や歩行時の平衡障害が著しい。起立を命ぜられて,起き上がるのにふつう不自由はないが,起立位を保っているとふらつきが強くなり上体が大きく揺れてくる。このとき,眼を閉じさせると,揺れはいっそう激しくなり,よろけて倒れてしまう。しかし眼を開ければ揺れは少なくなり,立ち続けることができる。また開眼していてもまわりが暗く,まわりをよく見ることができないような場合にも,眼を閉じたときと同じように揺れて倒れる。このようなことは日常生活の中でもしばしばみられ,脊髄癆の患者は暗がりで立ったり歩いたりすると転倒しやすく,また顔を洗うために眼を閉じると,とたんに体がよろける。これを洗面現象Waschbeckenphänomenという。暗がりでの転倒や洗面現象は自覚症状として訴えられることの多い症状である。また脊髄癆性失調症では脊髄癆性歩行tabetic gaitという独特の歩行障害を呈する。一歩一歩不必要なほど大きく足を上げ,次いで床にたたきつけるように踵から足を激しく振り下ろして歩く。このため勢い余って体がよろけてしまうほどである。症状の軽いときには,急に立ち止まったり,すばやくまわれ右をしたり,跳躍をしたときなどに,初めて体の動揺が生ずるだけのこともある。患者にとって最も困難なのは階段を下りるときであり,病気の初期から手すりなどにつかまらないと降段ができなくなってしまうことが多い。このような現象は,下肢の深部感覚障害によって,随意運動の大きさや強さを調節するために必要な末梢からのフィードバックが失われてしまうためのものである。上肢の深部知覚に障害がある場合には,上肢にも失調症状が出現し,書字が乱れるようになったり,ネクタイを結んだりボタンをかけたりすることがうまくできなくなることもある。
小脳性失調症cerebellar ataxia
小脳をおかすきわめて多数の病気でみられるものであり,やはり起立や歩行における平衡障害が生ずるのと同時に,上肢の運動障害,言語障害など,広い範囲にわたる運動障害を生じやすい。起立歩行の障害は,脊髄癆性失調症の場合とは異なって,眼を閉じても平衡障害が強くなることはない。ちょうどアルコールに酔っぱらったときのように,体が不安定となって揺れてしまうためにうまく立っていることができず,歩行もよろよろと左右に揺れてしまう。また,ろれつがまわらずうまくしゃべれなくなり,話す速度が遅くなり,一つ一つの音節の発音は明りょうであるのに,一つの音節から次の音節への変化が不明りょうかつ円滑でなくなるのが特徴である。上肢の運動もやはり強く障害されることが多い。物をつかんだりしようとすると,手は目標を行きすぎてしまったり,大きく揺れて一定の位置を保つことができなかったりする。字を書いたり,はしを扱ったりすることはとくに早期からおかされやすい。小脳性失調症における失調症状は筋緊張低下(ヒポトニーhypotonia),異なる筋群の間の協調障害(アジネルジーasynergia),随意筋収縮の開始の遅れdischronometriaなど,随意運動のコントロールに重要ないくつかの要素に対する障害が合わさって生ずるものと考えられている。
迷路性失調症labyrinthine ataxia
起立歩行時の平衡障害のみを生じ,体肢の個々の運動や,言語の障害は認められない。これは内耳の迷路,とくに三半規管や前庭,およびそこに由来する平衡感覚を受容する神経系の構造である前庭神経や前庭神経核の病変によって生ずるものである。起立・歩行でよろけやすく,とくに急激な方向転換や回転などで動揺が増し転倒してしまう。脊髄癆性失調症と同様,眼を閉じると平衡障害は強くなる。すなわち,迷路性失調症もまた視覚によって代償されやすい。
執筆者:岩田 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報