デジタル大辞泉
「那波活所」の意味・読み・例文・類語
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なわ‐かっしょ【那波活所】
- 江戸初期の儒者。播磨国(兵庫県)の人。名は觚、字(あざな)は道円。藤原惺窩の門に入り、程朱の学を学び、林羅山らとともに「藤門四天王」の一人に数えられた。熊本藩儒・紀州藩儒を歴任し、詩をよくした。その校訂した木活字本白氏文集は、北宋刊本の旧を伝えたものとして、中国の四部叢刊に収められる。主著「人君明暗図説」「活所備忘録」など。文祿四~慶安元年(一五九五‐一六四八)
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那波活所
没年:慶安1.1.3(1648.1.27)
生年:文禄4.3(1595)
江戸時代前期の儒学者。初名は信吉,のち方,觚と改名。字は道円,通称は平八。晩年,姓を祐と改めた。先祖は,播磨国(兵庫県)守護赤松氏の一族宇野氏,のち赤穂郡那波荘に移って那波氏を名乗る。祖父祐恵の代に,那波浦で商業に励み巨富を築く。父徳由も姫路で商業に従事。徳由の弟宗旦は,京都の豪商那波屋の祖である。幼少から学問を好み,17歳で上洛。翌年藤原惺窩に師事し,杜鵑の詩を呈して賞讃を受け,20歳で徳川家康に拝謁した。林羅山,堀杏庵,松永尺五と惺窩門四天王と称された。元和9(1623)年,生計のため肥後(熊本)藩に出仕したが,志にかなわず7年後に辞去。寛永11(1634)年,紀州藩主徳川頼宣に仕え,500石の厚遇を受け,頼宣の側近で直諫の人として活躍した。晩年,『寛永諸家系図伝』編集のため幕府に招聘されたが,眼疾を理由に辞退。「異中の同」を重視する惺窩の学問を基本的に継承しながら,次第に王陽明に接近して独自の思想を形成した。思想的特色は,生意を重視して性欲や芸術欲を積極的に肯定したり,天の領域を限定して人間的諸問題の人知による解決を主張するなどの点があげられ,伊藤仁斎の思想形成に多大な影響を与えたとみられる。<著作>『活所遺藁』『活所備忘録』<参考文献>柴田純『思想史における近世』,三浦俊明「海老名季次と那波祐恵」(『相生市史』2巻)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
那波活所
なわかっしょ
(1595―1648)
江戸初期の儒学者。名は方、のちに觚。字(あざな)は道円。活所と号す。播磨(はりま)(姫路市)の豪商の家に生まれる。家業に従わず、18歳のとき藤原惺窩(ふじわらせいか)に入門、朱子学を根幹としつつ独自の学問・思想を形成する。初め肥後の加藤侯に仕え、1634年(寛永11)には紀伊侯徳川頼宣(とくがわよりのぶ)に仕えて、その思想的ブレーンとなる。その著『人君明闇(めいあん)図説』は、紀州歴代藩主の教導書となる。木庵(もくあん)(1614―1683)は彼の長子である。
[玉懸博之 2016年6月20日]
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那波活所 (なわかっしょ)
生没年:1595-1648(文禄4-慶安1)
江戸前期の朱子学派の儒者。初名は方,のち觚,字は道円,号は活所。播磨の人で,初め熊本藩の俸禄を受けたが,その後紀州藩主徳川頼宣に仕え,頼宣の思想的ブレーンとなった。藤原惺窩の高弟で,林羅山らとともに藤門四天王と称された。活所の儒学思想は朱子学からしだいに陽明学に接近し,法と諫言を重視した。著書には《人君明暗図説》《活所備忘録》などがある。
執筆者:石毛 忠
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那波活所 なば-かっしょ
1595-1648 江戸時代前期の儒者。
文禄(ぶんろく)4年3月生まれ。那波木庵の父。京都の藤原惺窩(せいか)に師事し,林羅山(らざん)らとともに藤門四天王と称された。寛永12年紀伊(きい)和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)につかえ「人君明暗図」をあらわした。正保(しょうほ)5年1月3日死去。54歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。初名は信吉,のち方,觚(こ)。字(あざな)は道円。通称は平八。著作はほかに「活所備忘録」など。
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那波活所
なばかっしょ
[生]文禄4(1595).姫路
[没]正保5(1648).1.3.
江戸時代前期の朱子学派の儒学者。名は觚,字は道円。京都に出て藤原惺窩に学び,林羅山らとともに藤門四天王と称された。紀伊の徳川頼宣らに仕えた。著書『通俗四書註者考』 (1696) 。
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世界大百科事典(旧版)内の那波活所の言及
【漢詩文】より
…【玉村 竹二】
【近世】
近世初期,漢詩文を制作するうえで必要とされる漢語その他中国文化万般にわたる知識をもっとも豊富に有していたのは儒者であったから,近世における漢詩文の歴史は,儒者の余技という形で出発した。すなわち近世最初の儒者である林羅山,[松永尺五](せきご),堀杏庵,[那波活所](なわかつしよ)などが,同時に近世最初の漢詩人でもあった。したがってその文学活動は,彼らの奉じた朱子学の文学観の影響を強く受け,知識人の重んずべきは儒学であって,詩文は第二義の営みにすぎないという消極的な位置づけと,詩文は道徳に資するものでなければならないという道学主義との拘束のもとにあった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」