江戸前期の儒者。名は信勝。字(あざな)は子信(ししん)。剃髪(ていはつ)して道春(どうしゅん)と称す。羅山は号。天正(てんしょう)11年8月に京都に生まれる。1595年(文禄4)に臨済(りんざい)宗の建仁寺(けんにんじ)に入って、儒学と仏教を学んだが、1597年(慶長2)に家に帰ってのちはもっぱら儒書を読み、朱子の章句、集注(しっちゅう)(四書の注釈)を研究して宋学(そうがく)に傾倒し、仏教を排撃した。1604年より藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、その推薦で1607年徳川幕府に召し抱えられ、以後、家康(いえやす)、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)、家綱(いえつな)の4代将軍に仕え、侍講(じこう)として儒書や史書を講じた。またつねに将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法度(はっと)の制定や古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草にあたった。1630年(寛永7)将軍家光から江戸上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟(こうしびょう)を建て(これらはのち、神田(かんだ)の昌平坂(しょうへいざか)に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂となった)、林家(りんけ)の家学である朱子学が幕府の正学となる基を開いた。羅山は、1657年(明暦3)のいわゆる明暦(めいれき)の大火によって神田の本邸の文庫を焼失、落胆して病臥(びょうが)し4日後の1月23日に没した。
羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山(りくしょうざん)(九淵(きゅうえん))、王陽明(おうようめい)(守仁(しゅじん))の学に及び、諸子百家より日本の古典にわたったが、朱子学が中心であった。すなわち、羅山は藤原惺窩に従っていたころ王陽明の理気論に傾いていたが、1619年(元和5)の惺窩の死以降は朱子の理気論にたつことをはっきり宣言している。そして天(理気未分の太極(たいきょく))を人事・自然のいっさいの事物のうちに内在化し、しかも天は気によっていっさいを創造し、理によっていっさいを主宰するものと考え、この天の働き(天道)を賛(たす)けることを人道と断じ、この人道の履践(りせん)が「格物」に始まることを主張した(『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解(げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場から神道(しんとう)を解釈して「理当心地神道」をたて、近世の儒学神道の先駆けをなした(『神道伝授』(1644〜1647)『本朝神社考』(1638〜1645成立)『神道秘伝折中俗解』などの著がある)。
家康が羅山を召し抱えたのは、羅山の信奉した朱子学を理解し、それが新しい封建制度を持することを認めたからではなく、主として羅山の学殖を政治の実際に役だてようとしたからであろうが、しかし朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に内面的関係が存在し、この関係が羅山の子孫をして代々大学頭(だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどらせ、朱子学をして幕藩体制を支持する官学たらしめたゆえんと考えられる。
羅山には4人の男子があり、長男、二男は夭死(ようし)した。三男春勝(はるかつ)は鵞峰(がほう)と号し、1618年に、四男守勝(もりかつ)(1625―1661)は読耕斎(とくこうさい)と号し、1625年に、いずれも京都で生まれた。鵞峰は父の後を継いで幕府に仕えて大学頭となり、読耕斎もまた幕府に召し抱えられた。羅山の在世中、この2子は父を助けて歴史書の編集に従い、『寛永(かんえい)諸家系図伝』や『本朝編年録』(1644)などをつくった。羅山の死後に鵞峰は後者を続編して『本朝通鑑(つがん)』をつくる。
[石田一良 2016年6月20日]
『京都史籍会編・刊『羅山先生詩集・文集』全4巻(1920~1921)』▽『石田一良・金谷治編『日本思想大系 28 藤原惺窩・林羅山』(1975・岩波書店)』▽『堀勇雄著『林羅山』(1964/新装版・1990・吉川弘文館)』
(宮崎修多)
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江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は加賀の武士で父信時より京都に住み,伯父吉勝(米穀商)の養子となる。1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。最初の対面時の問答が〈惺窩答問〉である。翌05年惺窩のすすめもあって徳川家康に二条城で謁し,以後伏見城に伺候し,07年には駿府に赴き,また江戸で秀忠に講書し,家康側近にあって下問に応じた。豊臣秀頼大仏殿建立鐘銘事件,《群書治要》開版,大坂の陣参陣のことなどがあった。24年(寛永1)には家光の侍講を命ぜられ,公事(くじ)訴訟の評議に加わり,朝鮮信使応接にも当たった。29年民部卿法印に叙せられ,30年には上野忍岡(しのぶがおか)に学寮,先聖殿を建設し釈奠(せきてん)を行った。これは後の昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所)の基になるものである。35年に武家諸法度,諸士法度を起草,36年に伊勢神宮参拝典礼,朝鮮国への国書起草,43年に《寛永諸家系図伝》,44年(正保1)に《本朝編年録》を編集した。48年(慶安1)910石余を給せられ,55年(明暦1)には江戸城二の丸にあった銅造りの書庫を賜り神田の邸内に移築した。
家康より家綱に至る4代に仕え,創業期の幕府の法度,外交,典礼に関与し,また啓蒙期の学者としても著書は非常に多く,かつ漢籍の注釈,儒学の入門書,神道,排耶蘇(はいやそ)排仏の思想,国文学の注釈,辞書,随想,紀行,草子類の広範囲にわたっている。その多くは現在内閣文庫に収蔵され,文集,詩集は死後,子の林鵞峰によって編集されている。彼の学説は朱子学で,本然の性と気質の性とに分け,純善である本然の性も物欲によって気質の性が生ずるものであるから,修徳のくふうが必要である。それには読書と持敬の内と外との修養につとめるべきであると説いている。理気の説については,〈理気一に帰するのみ〉として判然としない態度であるが,神道と儒学については二教融和の理当心地神道を唱えている。
執筆者:山本 武夫
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1583.8.-~1657.1.23
江戸初期の儒学者。名は忠・信勝,字は子信,通称は又三郎・道春。羅山・夕顔巷と号す。文敏は私諡。京都生れ。建仁寺で禅学を学び,1604年(慶長9)藤原惺窩(せいか)に師事。惺窩のすすめで徳川家康に謁見して以後4代の将軍に仕え,幕府の文書行政に携わる。30年(寛永7)徳川家光から上野忍岡の地を寄進され,学寮を建設。林家の幕府学政への参与の道を開く。朱子学を基調とするが理気説などに朱子との差違がみられる。神儒合一の理当心地神道を唱え,キリスト教批判も激烈。博学を本領とし,将軍や幕閣からの諮問への応答や,文書の起草・編纂などをおもな任とした。武家諸法度,「寛永諸家系図伝」,朝鮮使節への国書の起草はその代表。「羅山先生文集」がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…本店,東京都日本橋。早矢仕有的(はやしゆうてき)が,貿易の振興こそ日本の国力を充実するゆえんであるとして,1869年(明治2)横浜に創業した輸入業丸屋商社をその前身とする。屋号の〈丸屋〉は,世界を相手に商売するという意味で,地球になぞらえて命名したものである。…
※「林羅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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