コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

林羅山 はやし らざん

10件 の用語解説(林羅山の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

林羅山

江戸前期の儒者・朱子学者。京都生。名は信勝、字は子信、通称は又三郎、別号に道春・羅浮子・浮山・羅洞等。藤原惺窩に学び、徳川家康以下四代の将軍に歴仕して封建教学・制度の樹立に尽し、上野に開いた私塾弘文館は昌平坂学問所の起源をなした。著作は厖大である。明暦3年(1657)歿、75才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

はやし‐らざん【林羅山】

[1583~1657]江戸初期の儒学者。幕府儒官林家の祖。京都の人。名は忠・信勝。法号、道春。朱子学藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康から家綱まで4代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、のちの昌平坂学問所の起源となった。著「羅山文集」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

林羅山【はやしらざん】

江戸初期の朱子学者。名は忠(ただし),信勝(のぶかつ)。字は子信(ししん)。法名を道春(どうしゅん)。羅山,羅孚子(らふし)と号す。京都の人。初め建仁(けんにん)寺で学んだが,朱子学に自己の立場を見出す。
→関連項目京学義理侍講儒家神道儒教駿河版駿府記林鵞峯堀杏庵本草綱目山鹿素行両部神道

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

林羅山 はやし-らざん

1583-1657 江戸時代前期の儒者。
天正(てんしょう)11年8月生まれ。藤原惺窩(せいか)に朱子学をまなぶ。慶長10年将軍徳川家康につかえ,以後4代の将軍の侍講をつとめる。法令の制定,外交文書の起草,典礼の調査・整備などにもかかわる。幕命で「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」を編修。上野忍岡に私塾(昌平黌(しょうへいこう)の前身)や孔子廟(びょう)をたて,林家が幕府の教学をになう基礎をつくった。明暦3年1月23日死去。75歳。京都出身。名は信勝,忠。字(あざな)は子信。通称は又三郎。僧号は道春。別号に夕顔巷,羅浮子など。
【格言など】人と云うものは,とかく私なる欲心によりて,災が出でくるぞ(「春鑑抄」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

林羅山

没年:明暦3.1.23(1657.3.7)
生年:天正11.8(1583)
安土桃山末期から江戸前期の儒学者。名信勝,忠。幼名菊松麻呂,字子信,通称又三郎,道春。号は羅山,羅浮子,夕顔巷,胡蝶洞,梅花村その他数多い。京四条新町に生まれる。父は加賀の郷士の末裔で浪人。13歳で建仁寺大統庵の古澗慈稽に,14歳で同じく建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に就いて,内典(仏書)のみならず外典も幅広く修得。特に雄長老の講席には松永貞徳ら文学に長じた同輩がいて少年羅山を刺激した。18歳ころからは経学,なかでも新学問たる宋学に開眼する。傍ら清原秀賢と交際し博士家伝統の学であった漢唐の古註疏も研究した。22歳,角倉素庵の仲介で藤原惺窩と会見し朱子の新註に対する信頼を深め,翌慶長10(1605)年,二条城で初めて徳川家康に謁し,翌々年その命により剃髪して道春と改称。 この自ら排する僧形を余儀なくされたことは,思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年批判を受けることになる。もっとも家康は,彼に大坂の陣口実のため名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど,博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって,羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く,専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。またこのころ,清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され,家康はそれを退けたという逸話があるが,秀賢らとの親炙などから史実としては疑問視されている。この間盛んに駿府と京都を往復しながら,以心崇伝らと古記録謄写,出版,集書など京の学問の復興に努めた。元和2(1616)年の家康没後は駿河御譲本の分割に尽力,同4年からは活動の中心を江戸に置き,和漢の古典を講じながら教訓仮名草子『三徳抄』『巵言抄』などを書いて諸大名家の教育に腐心。その他中国怪談集『怪談全書』や『徒然草』注釈の『野槌』の執筆など,多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。 寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること多く,朝鮮・オランダシャムとの通信に当たりながら政治顧問の地位につく。同6年,民部卿法印。7年,上野忍岡の賜地に学校設立を開始し,9年には先聖殿完成。12年には各法制を整備しつつ『武家諸法度』(寛永令)を制定。同18~20年,『寛永諸家系図伝』編纂。正保1(1644)年からは『本朝編年録』に着手。しかし,その知識の源泉であった膨大な蔵書も明暦の大火で焼き,数日後に没した。かつて豊臣打倒をもくろむ家康から湯武放伐(臣下にして主君を倒して王となった古代中国湯王と武王の故事)の是非を問われ,それを全面的に肯定。藤原惺窩との問答において,唯心的な陸象山の風を受けた惺窩を批判しながらも朱子の理気二元論には疑義を抱く。このような傾向は,羅山が単なる朱子学の祖述者でない複雑さを証するものであり,晩年には神儒一致論・排耶論をも展開する。すなわち世界的知識の個々を,わが風土人心に調和させようとする意識の性急かつ強固だったため,ときに論理的統一を欠き,叙述に百科全書的羅列を招いたといえる。<著作>『羅山林先生文集』『本朝神社考』『丙辰紀行』<参考文献>堀勇雄『林羅山』,石田一良・金谷治『藤原惺窩・林羅山』(日本思想大系28),宇野茂彦『林羅山・林鵝峰』(叢書日本の思想家)

(宮崎修多)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

江戸・東京人物辞典の解説

林羅山

1583〜1657(天正11年〜明暦3年)【儒学者】博覧強記に加えて実務の才をあわせ持ち、将軍家の侍講に。 家康から四代の将軍に仕えた。江戸初期の儒学者。京都出身。建仁寺で禅学を修行した後、藤原惺窩に師事。推挙され徳川家康に仕え、以後四代にわたり将軍の侍講となった。博覧強記に加え実務にも長け、武家諸法度をはじめ、朝鮮使節への国書の起草など、幕府の外交、文書作成、典礼格式の調査・整備にかかわった。三代家光のとき、城内に羅山のために先聖堂が建てられ、これは後の湯島聖堂の前身となった。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

はやしらざん【林羅山】

1583‐1657(天正11‐明暦3)
江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は加賀の武士で父信時より京都に住み,伯父吉勝(米穀商)の養子となる。1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

はやしらざん【林羅山】

1583~1657) 江戸初期の儒学者。京都生まれ。名は信勝。法号は道春。はじめ建仁寺に入り、のち藤原惺窩せいかに朱子学を学ぶ。1607年徳川家康に仕え、以後四代の将軍の侍講。上野忍ヶ岡に建てた学問所・先聖殿はのちの昌平黌しようへいこうの起源となる。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

林羅山
はやしらざん

[生]天正11(1583).8. 京都
[没]明暦3(1657).1.23. 江戸
江戸時代前期の朱子学派の儒学者。江戸幕府儒官林家 (りんけ) の祖。名は忠,信勝。字は子信。通称は又三郎。羅山は号。法号は道春,羅浮子。父は林信時。 13歳で建仁寺の大統庵に入り,18歳のとき『朱子集注』を読んで,朱子学に傾倒。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

林羅山
はやしらざん
(1583―1657)

江戸前期の儒者。名は信勝。字(あざな)は子信(ししん)。剃髪(ていはつ)して道春(どうしゅん)と称す。羅山は号。天正(てんしょう)11年8月に京都に生まれる。1595年(文禄4)に臨済(りんざい)宗の建仁寺(けんにんじ)に入って、儒学と仏教を学んだが、1597年(慶長2)に家に帰ってのちはもっぱら儒書を読み、朱子の章句、集注(しっちゅう)(四書の注釈)を研究して宋学(そうがく)に傾倒し、仏教を排撃した。1604年より藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、その推薦で1607年徳川幕府に召し抱えられ、以後、家康(いえやす)、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)、家綱(いえつな)の4代将軍に仕え、侍講(じこう)として儒書や史書を講じた。またつねに将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法度(はっと)の制定や古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草にあたった。1630年(寛永7)将軍家光から江戸上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟(こうしびょう)を建て(これらはのち、神田(かんだ)の昌平坂(しょうへいざか)に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂となった)、林家(りんけ)の家学である朱子学が幕府の正学となる基を開いた。羅山は、1657年(明暦3)のいわゆる明暦(めいれき)の大火によって神田の本邸の文庫を焼失、落胆して病臥(びょうが)し4日後の1月23日に没した。
 羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山(りくしょうざん)(九淵(きゅうえん))、王陽明(おうようめい)(守仁(しゅじん))の学に及び、諸子百家より日本の古典にわたったが、朱子学が中心であった。すなわち、羅山は藤原惺窩に従っていたころ王陽明の理気論に傾いていたが、1619年(元和5)の惺窩の死以降は朱子の理気論にたつことをはっきり宣言している。そして天(理気未分の太極(たいきょく))を人事・自然のいっさいの事物のうちに内在化し、しかも天は気によっていっさいを創造し、理によっていっさいを主宰するものと考え、この天の働き(天道)を賛(たす)けることを人道と断じ、この人道の履践(りせん)が「格物」に始まることを主張した(『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解(げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場から神道(しんとう)を解釈して「理当心地神道」をたて、近世の儒学神道の先駆けをなした(『神道伝授』(1644~1647)『本朝神社考』(1638~1645成立)『神道秘伝折中俗解』などの著がある)。
 家康が羅山を召し抱えたのは、羅山の信奉した朱子学を理解し、それが新しい封建制度を持することを認めたからではなく、主として羅山の学殖を政治の実際に役だてようとしたからであろうが、しかし朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に内面的関係が存在し、この関係が羅山の子孫をして代々大学頭(だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどらせ、朱子学をして幕藩体制を支持する官学たらしめたゆえんと考えられる。
 羅山には4人の男子があり、長男、二男は夭死(ようし)した。三男春勝(はるかつ)は鵞峰(がほう)と号し、1618年に、四男守勝(もりかつ)(1625―1661)は読耕斎(とくこうさい)と号し、1625年に、いずれも京都で生まれた。鵞峰は父の後を継いで幕府に仕えて大学頭となり、読耕斎もまた幕府に召し抱えられた。羅山の在世中、この2子は父を助けて歴史書の編集に従い、『寛永(かんえい)諸家系図伝』や『本朝編年録』(1644)などをつくった。羅山の死後に鵞峰は後者を続編して『本朝通鑑(つがん)』をつくる。[石田一良]
『京都史籍会編・刊『羅山先生詩集・文集』全4巻(1920~1921) ▽石田一良・金谷治編『日本思想大系 28 藤原惺窩・林羅山』(1975・岩波書店) ▽堀勇雄著『林羅山』(1964/新装版・1990・吉川弘文館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の林羅山の言及

【学校】より

…キリシタン学校では神学のほか,哲学,論理学,さらに天文学,数学,医学などの初歩も教えられていたと推測されており,半世紀余りの期間ではあったが,日本の文化に大きな影響を与えた。
[幕藩体制下の学校]
 天下統一を果たした徳川家康は学問を重視し,藤原惺窩(せいか)門下の林羅山を登用した。彼は朱子学の立場から儒学の基本である修身・斉家に始まる治国・平天下を説いて幕藩体制の理論的基礎を提供し,1630年(寛永7)には,幕府から与えられた江戸上野の忍岡の土地に塾を開き,幕府の最高学府となる昌平黌(昌平坂学問所)の基礎をつくった。…

【寛永諸家系図伝】より

…清和源氏・藤原氏・平氏・諸氏の4類,および医者・同朋・茶道に分け収録。1641年2月7日に太田資宗が諸家の系図を編修し差し上ぐべき旨の上意をうけ,同人が総裁,林羅山・鵞峰が編集責任者となり事業を推進,43年9月17日に両本都合372巻が献上された。献上の仮名本(続群書類従完成会より活字本刊行中)は内閣文庫に,真名本(重要文化財)は日光東照宮に所蔵されている。…

【玉露叢】より

…著者不詳。林羅山あるいは林鵞峰著とする説があるが,確かではない。1674年(延宝2)の自序によれば,著者若年よりの見聞を得るにしたがって,日次記(ひなみき)のように書きつけたという。…

【儒家神道】より

…江戸時代は儒教が社会の中心思想として流行した時代であるが,日本固有の神道思想に関心を抱き,神儒関係について儒教の立場から独自の見解を発表した儒学者が少なくなかった(神儒一致論)。近世儒学の創始者林羅山は日本の神社制度について《本朝神社考》《神社考詳節》(ともに1645)などを著し神社信仰にまつわる怪異妄信を批判是正し,《神道伝授》を著して若狭国主酒井忠勝に授与した。彼が一派の神道を樹立しようとしていたことがわかる。…

【神儒一致論】より

…ここではとくに儒家神道における神儒一致論の展開について説明したい。近世儒学の祖と言われる林羅山は《本朝神社考》《神社考詳節》などを著し,また若狭国主酒井忠勝のため《神道伝授》を著し,神道を理気陰陽の儒教理論で説明し,一家の神道説を提唱しようとした。その子鵞峰は《本朝通鑑》を著し,神代史の合理的叙述に努めた。…

【日本国王】より

…朝鮮側では,徳川将軍を足利将軍同様に日本国王と称したが,中国皇帝から正式に国王に冊封されていない将軍は〈日本国源秀忠〉のような従来どおりの称号で対応した。このため文書の書式をめぐって混乱があったが,林羅山の案に従って,朝鮮側では将軍を〈日本国大君〉と称し,将軍は〈日本国源某〉と書くことにきまった。ただ一度新井白石のとき〈日本国王〉号が復されたが,以後はまた大君にもどされた。…

【本朝神社考】より

林羅山著。近世初期における神社研究書。…

【本朝通鑑】より

…神代から1611年(慶長16)に至る間の漢文による編年体の史書。林羅山・林鵞峰著。310巻。…

【道】より

…〈仁・義・礼・智・信之五ツノ道ハ,常ニシテカハラヌゾ。人ト云モノダニアラバ,天地開闢(かいびやく)ヨリ以来(このかた),末代ニイタルマデニ,此道ノカハルコトハアルマヒホドニ,常ト云ゾ〉(林羅山《春鑑抄》)という言明は,この時期の事態をよく示している。ここでの強調点は,道は普遍永遠であることを説くことにあるが,その説き方の質が普遍的なものの存在を基盤において思想を成立させている朱子学的なものへの驚きを反映している。…

【林家】より

…〈はやしけ〉の音読による呼称で,江戸時代,林羅山を初代として幕府の教学に関与すること12代に及んだ家。1607年(慶長12)羅山が徳川家康に登用され,諸法度の起草,外交文書の起案など枢機に参与し,側近者的役割を果たし,秀忠,家光にも出仕し,その忍岡(しのぶがおか)の家塾は幕府の学問所的役割を担い,江戸の漢学興隆の基を開いた。…

【老子】より

… なお日本では,早く聖徳太子の《三経義疏(さんぎようぎしよ)》中に《老子》の引用が見られるが,その思想に対する理解共感が深まりをみせるのは,鎌倉室町期の禅文化の隆盛が,禅思想と親近な老荘思想普及の契機をなしてからである。江戸時代には,当初《老子》を儒家的立場で解釈した宋の林希逸の注に基づく研究が林羅山らによって行われたが,やがて徂徠学派,折衷学派による文献学的研究が主流となり,その原義の追究に多大な成果が挙げられた。老荘思想【麦谷 邦夫】。…

※「林羅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

林羅山の関連キーワード船橋秀賢今城為親清韓文英酒井貞月弘尊南浦文之後窯伯庵古曽部焼寺預け

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

林羅山の関連情報