林羅山(読み)ハヤシラザン

デジタル大辞泉 「林羅山」の意味・読み・例文・類語

はやし‐らざん【林羅山】

[1583~1657]江戸初期の儒学者。幕府儒官林家の祖。京都の人。名は忠・信勝。法号、道春。朱子学藤原惺窩ふじわらせいかに学び、徳川家康から家綱まで4代の将軍侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、のちの昌平坂学問所の起源となった。著「羅山文集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「林羅山」の意味・読み・例文・類語

はやし‐らざん【林羅山】

  1. 江戸初期の儒者。名は忠または信勝。字は子信。通称又三郎。家康の命により慶長十二年(一六〇七)剃髪して道春と号した。京都の人。藤原惺窩に朱子学を学ぶ。のち、惺窩の推薦によって徳川家康の顧問となり、引き続き秀忠、家光、家綱に仕えて政治・文教に参画。また、忍岡に学問所および聖堂を建て、これが昌平黌(しょうへいこう)のもととなった。「武家諸法度」「旗本諸法度」を起草し、「寛永諸家系図伝」を完成した。著書も極めて多く「羅山文集」「大学抄」「大学解」「論語解」など。天正一一~明暦三年(一五八三‐一六五七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林羅山」の意味・わかりやすい解説

林羅山
はやしらざん
(1583―1657)

江戸前期の儒者。名は信勝。字(あざな)は子信(ししん)。剃髪(ていはつ)して道春(どうしゅん)と称す。羅山は号。天正(てんしょう)11年8月に京都に生まれる。1595年(文禄4)に臨済(りんざい)宗の建仁寺(けんにんじ)に入って、儒学と仏教を学んだが、1597年(慶長2)に家に帰ってのちはもっぱら儒書を読み、朱子の章句、集注(しっちゅう)(四書の注釈)を研究して宋学(そうがく)に傾倒し、仏教を排撃した。1604年より藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、その推薦で1607年徳川幕府に召し抱えられ、以後、家康(いえやす)、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)、家綱(いえつな)の4代将軍に仕え、侍講(じこう)として儒書や史書を講じた。またつねに将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法度(はっと)の制定や古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草にあたった。1630年(寛永7)将軍家光から江戸上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟(こうしびょう)を建て(これらはのち、神田(かんだ)の昌平坂(しょうへいざか)に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂となった)、林家(りんけ)の家学である朱子学が幕府の正学となる基を開いた。羅山は、1657年(明暦3)のいわゆる明暦(めいれき)の大火によって神田の本邸の文庫を焼失、落胆して病臥(びょうが)し4日後の1月23日に没した。

 羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山(りくしょうざん)(九淵(きゅうえん))、王陽明(おうようめい)(守仁(しゅじん))の学に及び、諸子百家より日本の古典にわたったが、朱子学が中心であった。すなわち、羅山は藤原惺窩に従っていたころ王陽明の理気論に傾いていたが、1619年(元和5)の惺窩の死以降は朱子の理気論にたつことをはっきり宣言している。そして天(理気未分の太極(たいきょく))を人事・自然のいっさいの事物のうちに内在化し、しかも天は気によっていっさいを創造し、理によっていっさいを主宰するものと考え、この天の働き(天道)を賛(たす)けることを人道と断じ、この人道の履践(りせん)が「格物」に始まることを主張した(『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解(げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場から神道(しんとう)を解釈して「理当心地神道」をたて、近世の儒学神道の先駆けをなした(『神道伝授』(1644〜1647)『本朝神社考』(1638〜1645成立)『神道秘伝折中俗解』などの著がある)。

 家康が羅山を召し抱えたのは、羅山の信奉した朱子学を理解し、それが新しい封建制度を持することを認めたからではなく、主として羅山の学殖を政治の実際に役だてようとしたからであろうが、しかし朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に内面的関係が存在し、この関係が羅山の子孫をして代々大学頭(だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどらせ、朱子学をして幕藩体制を支持する官学たらしめたゆえんと考えられる。

 羅山には4人の男子があり、長男、二男は夭死(ようし)した。三男春勝(はるかつ)は鵞峰(がほう)と号し、1618年に、四男守勝(もりかつ)(1625―1661)は読耕斎(とくこうさい)と号し、1625年に、いずれも京都で生まれた。鵞峰は父の後を継いで幕府に仕えて大学頭となり、読耕斎もまた幕府に召し抱えられた。羅山の在世中、この2子は父を助けて歴史書の編集に従い、『寛永(かんえい)諸家系図伝』や『本朝編年録』(1644)などをつくった。羅山の死後に鵞峰は後者を続編して『本朝通鑑(つがん)』をつくる。

石田一良 2016年6月20日]

『京都史籍会編・刊『羅山先生詩集・文集』全4巻(1920~1921)』『石田一良・金谷治編『日本思想大系 28 藤原惺窩・林羅山』(1975・岩波書店)』『堀勇雄著『林羅山』(1964/新装版・1990・吉川弘文館)』


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朝日日本歴史人物事典 「林羅山」の解説

林羅山

没年:明暦3.1.23(1657.3.7)
生年:天正11.8(1583)
安土桃山末期から江戸前期の儒学者。名信勝,忠。幼名菊松麻呂,字子信,通称又三郎,道春。号は羅山,羅浮子,夕顔巷,胡蝶洞,梅花村その他数多い。京四条新町に生まれる。父は加賀の郷士の末裔で浪人。13歳で建仁寺大統庵の古澗慈稽に,14歳で同じく建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に就いて,内典(仏書)のみならず外典も幅広く修得。特に雄長老の講席には松永貞徳ら文学に長じた同輩がいて少年羅山を刺激した。18歳ころからは経学,なかでも新学問たる宋学に開眼する。傍ら清原秀賢と交際し博士家伝統の学であった漢唐の古註疏も研究した。22歳,角倉素庵の仲介で藤原惺窩と会見し朱子の新註に対する信頼を深め,翌慶長10(1605)年,二条城で初めて徳川家康に謁し,翌々年その命により剃髪して道春と改称。 この自ら排する僧形を余儀なくされたことは,思想的純粋性を欠いた矛盾ある行動として後年批判を受けることになる。もっとも家康は,彼に大坂の陣口実のため名高い方広寺鐘銘の勘文を作らせるなど,博覧強記の物読み坊主として重んじたのであって,羅山の奉ずる朱子学を徳川政権の論理的支柱として用いる意識は薄く,専ら彼を外交・文書作成・典礼格式の調査整備などの実務に当てた。またこのころ,清原家から羅山の公許なき新註講義に対する訴えが出され,家康はそれを退けたという逸話があるが,秀賢らとの親炙などから史実としては疑問視されている。この間盛んに駿府と京都を往復しながら,以心崇伝らと古記録謄写,出版,集書など京の学問の復興に努めた。元和2(1616)年の家康没後は駿河御譲本の分割に尽力,同4年からは活動の中心を江戸に置き,和漢の古典を講じながら教訓仮名草子『三徳抄』『巵言抄』などを書いて諸大名家の教育に腐心。その他中国怪談集『怪談全書』や『徒然草』注釈の『野槌』の執筆など,多岐にわたる文化面での啓蒙活動が彼の本領であった。 寛永期に入ってからは徳川家光に陪すること多く,朝鮮・オランダ・シャムとの通信に当たりながら政治顧問の地位につく。同6年,民部卿法印。7年,上野忍岡の賜地に学校設立を開始し,9年には先聖殿完成。12年には各法制を整備しつつ『武家諸法度』(寛永令)を制定。同18~20年,『寛永諸家系図伝』編纂。正保1(1644)年からは『本朝編年録』に着手。しかし,その知識の源泉であった膨大な蔵書も明暦の大火で焼き,数日後に没した。かつて豊臣打倒をもくろむ家康から湯武放伐(臣下にして主君を倒して王となった古代中国湯王と武王の故事)の是非を問われ,それを全面的に肯定。藤原惺窩との問答において,唯心的な陸象山の風を受けた惺窩を批判しながらも朱子の理気二元論には疑義を抱く。このような傾向は,羅山が単なる朱子学の祖述者でない複雑さを証するものであり,晩年には神儒一致論・排耶論をも展開する。すなわち世界的知識の個々を,わが風土人心に調和させようとする意識の性急かつ強固だったため,ときに論理的統一を欠き,叙述に百科全書的羅列を招いたといえる。<著作>『羅山林先生文集』『本朝神社考』『丙辰紀行』<参考文献>堀勇雄『林羅山』,石田一良・金谷治『藤原惺窩・林羅山』(日本思想大系28),宇野茂彦『林羅山・林鵝峰』(叢書日本の思想家)

(宮崎修多)

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百科事典マイペディア 「林羅山」の意味・わかりやすい解説

林羅山【はやしらざん】

江戸初期の朱子学者。名は忠(ただし),信勝(のぶかつ)。字は子信(ししん)。法名を道春(どうしゅん)。羅山,羅孚子(らふし)と号す。京都の人。初め建仁(けんにん)寺で学んだが,朱子学に自己の立場を見出す。藤原惺窩(せいか)と論争したのち,その門に入る。1605年徳川家康に仕え,以後家綱(いえつな)に至る4代の将軍の侍講として,外交文書・諸法度の草案などに関与し,幕政の整備に貢献。1630年上野忍岡(しのぶがおか)に学寮(のちの昌平坂(しょうへいざか)学問所)を建て,また孔子廟(先聖殿(せんせいでん))をつくる。朱子学を幕府の官学とし,彼の子孫は林家(りんけ)と称し代々幕府の儒官となった。著書《大学抄》《大学解》《論語解》《神道伝授》《本朝神社考》《本朝通鑑(ほんちょうつがん)》など。
→関連項目京学義理侍講儒家神道儒教駿河版駿府記林鵞峯堀杏庵本草綱目山鹿素行両部神道

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改訂新版 世界大百科事典 「林羅山」の意味・わかりやすい解説

林羅山 (はやしらざん)
生没年:1583-1657(天正11-明暦3)

江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は加賀の武士で父信時より京都に住み,伯父吉勝(米穀商)の養子となる。1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。最初の対面時の問答が〈惺窩答問〉である。翌05年惺窩のすすめもあって徳川家康に二条城で謁し,以後伏見城に伺候し,07年には駿府に赴き,また江戸で秀忠に講書し,家康側近にあって下問に応じた。豊臣秀頼大仏殿建立鐘銘事件,《群書治要》開版,大坂の陣参陣のことなどがあった。24年(寛永1)には家光の侍講を命ぜられ,公事(くじ)訴訟の評議に加わり,朝鮮信使応接にも当たった。29年民部卿法印に叙せられ,30年には上野忍岡(しのぶがおか)に学寮,先聖殿を建設し釈奠(せきてん)を行った。これは後の昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所)の基になるものである。35年に武家諸法度,諸士法度を起草,36年に伊勢神宮参拝典礼,朝鮮国への国書起草,43年に《寛永諸家系図伝》,44年(正保1)に《本朝編年録》を編集した。48年(慶安1)910石余を給せられ,55年(明暦1)には江戸城二の丸にあった銅造りの書庫を賜り神田の邸内に移築した。

 家康より家綱に至る4代に仕え,創業期の幕府の法度,外交,典礼に関与し,また啓蒙期の学者としても著書は非常に多く,かつ漢籍の注釈,儒学の入門書,神道,排耶蘇(はいやそ)排仏の思想,国文学の注釈,辞書,随想,紀行,草子類の広範囲にわたっている。その多くは現在内閣文庫に収蔵され,文集,詩集は死後,子の林鵞峰によって編集されている。彼の学説は朱子学で,本然の性と気質の性とに分け,純善である本然の性も物欲によって気質の性が生ずるものであるから,修徳のくふうが必要である。それには読書と持敬の内と外との修養につとめるべきであると説いている。理気の説については,〈理気一に帰するのみ〉として判然としない態度であるが,神道と儒学については二教融和の理当心地神道を唱えている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林羅山」の意味・わかりやすい解説

林羅山
はやしらざん

[生]天正11(1583).8. 京都
[没]明暦3(1657).1.23. 江戸
江戸時代前期の朱子学派の儒学者。江戸幕府儒官林家 (りんけ) の祖。名は忠,信勝。字は子信。通称は又三郎。羅山は号。法号は道春,羅浮子。父は林信時。 13歳で建仁寺の大統庵に入り,18歳のとき『朱子集注』を読んで,朱子学に傾倒。 22歳のとき藤原惺窩の門人となり,翌年惺窩の推挙により,徳川家康の侍講となって,外交文書や諸法度の起草,儀式の調査制定などにあたった。秀忠,家光,家綱までの4代の将軍に仕え,寛永7 (1630) 年上野忍岡に家塾を建てて,のち官学となった昌平黌の学問の礎を築いた。著書『三徳抄』『大学解』『神道伝授』『本朝神社考』『本朝通鑑』『羅山文集』。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「林羅山」の解説

林羅山
はやしらざん

1583.8.-~1657.1.23

江戸初期の儒学者。名は忠・信勝,字は子信,通称は又三郎・道春。羅山・夕顔巷と号す。文敏は私諡。京都生れ。建仁寺で禅学を学び,1604年(慶長9)藤原惺窩(せいか)に師事。惺窩のすすめで徳川家康に謁見して以後4代の将軍に仕え,幕府の文書行政に携わる。30年(寛永7)徳川家光から上野忍岡の地を寄進され,学寮を建設。林家の幕府学政への参与の道を開く。朱子学を基調とするが理気説などに朱子との差違がみられる。神儒合一の理当心地神道を唱え,キリスト教批判も激烈。博学を本領とし,将軍や幕閣からの諮問への応答や,文書の起草・編纂などをおもな任とした。武家諸法度,「寛永諸家系図伝」,朝鮮使節への国書の起草はその代表。「羅山先生文集」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林羅山」の解説

林羅山 はやし-らざん

1583-1657 江戸時代前期の儒者。
天正(てんしょう)11年8月生まれ。藤原惺窩(せいか)に朱子学をまなぶ。慶長10年将軍徳川家康につかえ,以後4代の将軍の侍講をつとめる。法令の制定,外交文書の起草,典礼の調査・整備などにもかかわる。幕命で「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」を編修。上野忍岡に私塾(昌平黌(しょうへいこう)の前身)や孔子廟(びょう)をたて,林家が幕府の教学をになう基礎をつくった。明暦3年1月23日死去。75歳。京都出身。名は信勝,忠。字(あざな)は子信。通称は又三郎。僧号は道春。別号に夕顔巷,羅浮子など。
【格言など】人と云うものは,とかく私なる欲心によりて,災が出でくるぞ(「春鑑抄」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「林羅山」の解説

林羅山
はやしらざん

1583〜1657
江戸前期の朱子学者。林家の祖
名は信勝,晩年出家して道春 (どうしゆん) と称した。京都の人。建仁寺で儒仏を学んだが,僧にならず藤原惺窩 (せいか) に師事。徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え,侍講となり,儀式・典礼・法令の調査制定や文書の起草にあたり,儒教的封建教学を樹立した。幕命により『本朝通鑑』を編集,ほかに『羅山文集』『本朝神社考』など。

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世界大百科事典(旧版)内の林羅山の言及

【丸善[株]】より

…本店,東京都日本橋。早矢仕有的(はやしゆうてき)が,貿易の振興こそ日本の国力を充実するゆえんであるとして,1869年(明治2)横浜に創業した輸入業丸屋商社をその前身とする。屋号の〈丸屋〉は,世界を相手に商売するという意味で,地球になぞらえて命名したものである。…

※「林羅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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