大見村(読み)おおみむら

日本歴史地名大系 「大見村」の解説

大見村
おおみむら

[現在地名]三野町大見

東から南にかけて黒戸くろと山・弥谷いやだに山・火上ひかみ山などの稜線が連なり、北西は貴峰とみね山・竜王りゆうおう山、北は海に面し、中央部に竜王谷りゆうおうだに川・水谷みずたに川が流れ平地が西へ広がる。丸亀に通じる伊予街道が通る。応安五年(一三七二)三月八日の源泰忠置文(秋山家文書)惣領の所領四至を記して「ひかし大みのさかい」とある。永禄三年(一五六〇)一一月一三日の香川之景宛行状(同文書)によれば、当地内に久光・道重の二名が存在した。元徳三年(一三三一)一二月五日の源誓置文(同文書)により、高瀬たかせ郷が伊予大道いよだいどうを境に上下に分けられた。当地内に大道おおみちの地名が残る。永禄六年六月一日の香川之景宛行状(同文書)にみえる同郷内「武田」は当地の竹田たけだにあたるか。戦国期には香川氏の居城天霧あまぎり城があり軍事上の要地であった。

寛永国絵図では大見郷とみえ、竹田、松崎まつさき(現詫間町)をも含む大見郷の高一千四〇八石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千四三九石余、うち新田一一一石余。同一八年の小物成は綿二〇一匁九分(山崎領小物成帳)


大見村
おおみむら

[現在地名]左京区大原おおはら大見町

北は尾越おこせ新田、西は別所べつしよ大布施おおふせ八桝やますの各村に接し、東南は百井ももい村と火打谷ひうちだに山をもって限る。鞍馬くらまの北方に位置し東方を近江国に接する山間集落で、冬期は雪が深い。村の東南を大見川が流れる。

大見の名は平治元年(一一五九)の前太政大臣藤原忠通家政所下文案(高松宮家文書)久多くた針幡はりはたとともに「大見田伍町」とみえ、法成ほうじよう寺領であったことが記される。

中世を通じ、久多と一体として知行されたらしく、鎌倉時代末期には足利家領、室町期には醍醐寺三宝だいごじさんぼう(現伏見区)領とされ、更に近世には近江朽木氏が知行した。しかしこの朽木氏知行には久多ともども抵抗を示し、逃散なども試みるが、結局還住を命じられている(醍醐寺文書)


大見村
おおみむら

[現在地名]木之本町大見

河合かわい村の北西、大箕おおみ山東麓にある。地内を高時たかとき川が南東流する。大箕村とも記す。大箕山山上にある大箕山寺(菅山寺、現余呉町)の登山口である。同寺中興の専暁は当村出身で、文永年中(一二六四―七五)南宋へ渡り、建治元年(一二七五)宋版大蔵経七千巻余(芝増上寺蔵)を持帰っており、晩年当村に隠棲したという(伊香郡志)専暁屋敷せんぎようやしきの地名が残る。高時川に沿って丹生にゆう(現余呉町)へ入り北陸に抜ける道が古代より開かれていた。


大見村
おおみむら

[現在地名]足助町東大見ひがしおおみ

ともえ川右岸に注ぐ神越かみこし川の支流大見川に沿う。東は御内蔵連みうちぞうれ村、南は現下山しもやま村、西は葛沢つづらさわ村、北は山蕨やまわらび村・やま中立なかだち村に接する。集落は北西に向かって流れる大見川に沿う谷地形の中で、右岸の山麓に点在。大見新田と称する地が大見川右岸に注ぐ谷川をさかのぼった山中にあり、昭和二〇年代まで集落が存在した。縄文時代後期の川場かわば広貝戸ひろがいと市平いちだいらの三遺跡がある。いずれも大見川右岸に沿う西南に面した山麓の緩傾斜地に立地。

寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。慶安四年(一六五一)保久ほつきゆう(現額田郡額田町)に陣屋を置く旗本石川総氏の知行地となり、同家の知行が幕末まで続く。


大見村
おおみむら

[現在地名]浜松市中里町なかさとちよう

松小池まつこいけ村の東、天竜川右岸に位置。豊田郡に属する。「和名抄」所載の長上郡碧海あおうみ郷の遺称地とする説もある(遠江国風土記伝)。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状写(松尾大社文書)にみえる大見村は当地に比定される。同村は池田いけだ庄に属し、田六八町三反三六歩、うち見作二五町五反三丈・年荒二九町一反三丈・田代三〇町五反四丈・畠一三町六反四丈・常荒九町六反二丈・野一六町があり、これらは大見里(三六坪)・宮前(三六坪)・捌生里外(四坪)・江墓里(二〇坪)・細沢里外(八坪)・治里外(四坪)に存在した。江戸時代初頭は長命ちようめい村と一村で、松平忠頼領郷村帳に大見長命村とみえ高二九五石余、田二〇町六反余・畑一三町五反余。


大見村
おおみむら

[現在地名]不知火町大見

東は松合まつあい村、西は大口おおくち(現三角町)に接し、南は八代海に面する。東・西・北は山野で高燥地。村の中央に神後かみのうしろ、南東に北傍示尾きたほうじお、北東に焼山やけやま、北に萩迫はぎのさこなどの字地がみえる(郡村誌)。応永一一年(一四〇四)一〇月一〇日の肥後郡浦庄地検帳(阿蘇家文書)に「大見」とみえ、郡浦こおのうら庄に属した。近世は松山手永に属し、正保郷帳では田方一七六石二斗余・畑方五四石一斗余。「国誌」に「天満宮 年ノ宮」とある。


大見村
おおみむら

[現在地名]大三島町大見

現大三島町の北部に位置する。東は山を負い、西は海に臨み、南は明日あけび村、北は肥海ひがい村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「太見村 日損所、芝山有」とみえ、村高は四一石六斗八升の小村である。享保末年の「越智島旧記」によると、田畑面積は、田三町三反八畝一七歩、畑三六町一反八畝、ほかに新田畑として、田八畝一三歩、畑一町一反二七歩がある。家数は七四軒、うち御水主定家数九軒、御百姓家五九軒、無給家六軒、人数三七三人である。また越智島必用覚書(松浦八郎氏蔵)によると、享保六年(一七二一)当村には揚浜が四反三畝あり、その運上銀は一一六匁八分であった。


大見村
おおみむら

[現在地名]豊田市大見町

三好面上に形成された村。矢作川に架かる山室やまむろ橋を渡って、北東に一キロほど進むと大見の集落の中心部に至る。近世初めは成瀬氏領。元禄と天保の郷帳記載時には尾張藩寺部渡辺氏の支配に属している。慶長九年(一六〇四)の奉行都築清七郎・太田勘右衛門検地帳写(豊田市蔵)には「孫左衛門もの」「同人同居」という記載があり、家族持家持の下人が出てくる。隣村山室村から六人、渋川そぶかわ村・赤原あかばら村から各一人の出作者が田地を名請している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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