中国、陝西(せんせい)省中部、渭河(いが)の北岸にある地級市。3市轄区、乾(けん)、三原(さんげん)など10県を管轄し、1県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。常住人口497万2400(2015)。戦国時代、現在の市街の東方に秦(しん)の孝公(在位前361~前338)が初めて都城を築いて以来、秦の国都として繁栄した。とくに始皇帝は天下を統一する(前221)と、全国の富豪12万戸をここに移住させ、また自分が破った諸侯の宮殿を模倣した宮殿をここに建造して、諸侯の妻妾(さいしょう)たちを住まわせたので、宮殿の数は270に上ったという。さらに始皇帝は、渭河の南岸にも阿房宮(あぼうきゅう)を造営し、閣道(かくどう)を渭河に渡して咸陽の宮殿と連絡させようとしたが、秦が滅びると、咸陽の宮殿、阿房宮ともに項羽(こうう)によって焼き払われた。このとき阿房宮は3か月間にわたり燃え続けたという。
現在の市街は明(みん)代からのもので、化学や機械、食品加工、建築材料、製薬、紡績などの工業が盛ん。市街の北約13キロメートルに西安(せいあん)咸陽国際空港がある。
[關尾史郎・編集部 2017年7月19日]
中国,戦国時代の前350-前207年の秦の都。現在の陝西省咸陽市の北東約10kmの窯店公社にある。城壁は一部を除き明確でないが,渭河をまたいでほぼ15km四方の範囲と推定されている。城内の北方高地は宮殿区で東西に多数の宮殿基址がある。そのうち1号と3号の両宮殿址が調査された。1号宮殿址は1974-75年の調査で,牛羊村北方高地上にあり,中間に牛羊溝をはさんで東西に対称に回廊で連なり,両側におのおの東西68m,南北45mの2層の版築土台を心とした木造瓦葺の3層の殿閣であったことがわかった。3号宮殿址では79年の調査で,全形はなお明らかでないが,両側壁に車馬行列などの壁画を描いた南北32.4m,東西5mの長大な廊下が発見された。両宮殿とも火災のあとをとどめ,項羽による焼打ちのあとと考えられる。有名な阿房宮は渭河の南,西安市の西郊にあるが未調査である。宮殿区付近には鋳鉄・冶銅・製陶工房址があり,官営工房とも考えられる。一方,城外南西の長陵駅付近には密集した陶窯址があり,出土陶器に〈咸陽……〉〈咸里……〉の印を押したものがある。また多量の半両銭も出土し,民間商業活動の発達を示すものとされている。城外北西隅は戦国から秦に至る中・小型墓葬区である。他方,大型墓では畢原上にあって従来周の文王と武王の陵と呼ばれていたものが,秦の恵文王と武王の陵と比定されており,戦国中期以降の都城と墓制の様相の一端を示している。
執筆者:秋山 進午
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中国陝西(せんせい)省西安の北西,渭水(いすい)北岸の都市。前350年以来秦の国都。始皇帝の統一後,天下の富豪12万戸をここに移住させ繁栄をきわめたが,秦滅亡のとき焼き払われた。その西10kmにある現在の町は明初以後のもの。
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…天下統一によりこれを全域に及ぼしたのである。民間から武器を没収して国都の咸陽に集め,鐘鐻などの楽器や金人を鋳造して宮廷に並べ,また地方都市の城郭を取り除かせた。度量衡を統一して基準の量器を全国に配布し,車軌を一定し,標準となるべき文字(篆書(てんしよ))や貨幣(半両銭)を制定した。…
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