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鄭道伝 ていどうでんChǒng Tojǒn

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鄭道伝
ていどうでん
Chǒng Tojǒn

[生]?
[没]太祖7(1398)
朝鮮,高麗末~朝鮮王朝 (李朝) 初期の政治家,儒学者。慶尚北道奉化郡出身。字は宗之。号は三峯。諡は文憲。辛ご1 (1375) 年に向明排元説を主張して左遷されたが,同 10年賀聖節使鄭夢周随員として明にいった。昌王1 (89) 年趙浚らと田制の改革を唱え,恭譲王2 (90) 年に三司右使,忠義君,政堂文学を与えられた。太祖1 (92) 年に朝鮮王朝太祖李成桂を王位に推戴した。その後一等功臣として判三司事兼三軍府事,三道都統使などになり,朝鮮王朝初期に活躍したが,太祖7 (98) 年8月世子李芳碩の擁立に失敗して殺された。彼は李穡 (りしょく) の弟子で有名な朱子学者であり,強硬な排論者である。『三峯集』『経国典』などの著書があり,『高麗史』の編纂を命じられたが果さなかった。

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世界大百科事典 第2版の解説

ていどうでん【鄭道伝 Chŏng To‐jŏn】

?‐1398
朝鮮の高麗,李朝の文臣,学者。字は宗之,号は三峯。慶尚道奉化の人。李穡(りしよく)の門人で朱子学を修め,威化島回軍以後,李成桂(李朝の太祖)の参謀として活躍した。田制改革案を支持し,仏教の排撃を強硬に主張して対立勢力を退け,趙浚らとともに李成桂を王に推戴して功臣号を受けた。李朝成立後も要職を歴任し,文物制度や国策の決定には多く関与したが,王位継承の内乱に座し,李芳遠(太宗)に斬首された。著書の《三峯集》には,李朝の統治理念を示した《朝鮮経国典》《経済文鑑》や,李朝初期の排仏政策に理論的根拠を与えた《仏氏雑弁》等を収める。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鄭道伝
ていどうでん
(?―1398)

朝鮮、高麗(こうらい)末・李朝(りちょう)初めの政治家、学者。奉化(ほうか)(慶尚道)の人。号は三峰。李穡(りしょく)(1328―96)の門人で、1362年文科に及第した。趙浚(ちょうしゅん)とともに李成桂(りせいけい)(李朝の太祖)に協力し、科田法を施行して田制改革を行った。こうして李成桂政権の基盤形成に尽力し、李朝成立後は国家第一の功臣とされ、官は門下侍郎賛成事(もんかじろうさんせいじ)、判三軍府事(はんさんぐんふじ)など文武の要職を歴任した。『経済文鑑』『朝鮮経国典』を著して『経国大典』につながる李朝法体系の原型をつくり、第一次『高麗史』37巻の編纂(へんさん)も行った。李成桂の後継者争いでは李芳碩(ほうせき)を支持して李芳遠(太宗)に敗れ、国家第一の逆臣として斬首(ざんしゅ)に処せられた。文集に『三峰集』がある。[吉田光男]

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世界大百科事典内の鄭道伝の言及

【儒教】より

…儒教は修己治人の学である以上,朱子学も経世済民的側面(治人)と精神陶冶的側面(修己)の2面をもつ。李朝でも初期の王朝体制づくりの時期に貢献したのは前者の経世治国的朱子学である(例えば,革新官僚派鄭道伝の《朝鮮経国典》や《経済文鑑》作成における活躍)。しかし王朝体制が整備されるや,代わって体制維持に奉仕する修己=道学の朱子学が尊重されるのは自然の勢いであった。…

【李成桂】より

…同時に土地制度改革に着手し,91年に科田法を公布して旧家世族の私田を没収した。こうして92年,李成桂は趙浚(ちようしゆん)や鄭道伝らに推戴されて新王朝を開き,翌年,国号を朝鮮と定め,親明政策を外交方針とした。94年,首都を高麗王朝の本拠地開城から漢陽(漢城,現在のソウル)に移した。…

※「鄭道伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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