日本歴史地名大系 「野尻城跡」の解説 野尻城跡のじりじようあと 宮崎県:西諸県郡野尻町麓村野尻城跡[現在地名]野尻町東麓 牟田原南東流する城之下(じようのした)川南岸にある。新城・きしなきが城ともよばれた(三国名勝図会)。築城の時期、築城者などは不明だが、遅くとも南北朝期には築かれていた。暦応二年(一三三九)九月二日付の日下部盛連軍忠状(郡司文書)によれば、八月一七日南朝方の肝付兼重が城(現不明)を脱出して「野尻城」に籠城したとある。また南朝方として肥後各地で北朝方の鎮西管領一色氏や守護少弐頼尚と合戦していた阿蘇惟澄は、延元三年―興国元年(一三三八―一三四〇)の頃一時的に日向に入り、野尻城を攻略した(正平三年九月「恵良惟澄軍忠状」阿蘇文書)。文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には肝付氏一族の系譜を引く北原氏の持城として野尻城がみえる。だが永禄四年(一五六一)頃には伊東氏の支配下に入っており、三ッ山(みつやま)城(現小林市)、須木(すき)城・奈佐木(なさき)城(現須木村)とともに真幸(まさき)口の守りとされた(日向記)。同七年四月二二日の最上宗檜別紙副状(旧記雑録)には真幸院内の伊東方近年押領の地として、「三之山之内」の野尻があげられている。 野尻城跡のじりじようあと 長野県:上水内郡信濃町野尻村野尻城跡[現在地名]信濃町大字野尻 城が入野尻湖の北岸、城が入(じようがいり)地籍にあり、斑尾(まだらお)山麓が延びた舌状の尾根の突端に築かれた山城。頂上に三一メートルに二二メートルの長方形の平地があり、周囲に土居をめぐらしているのが主郭跡で、その東側は土居のほかに空堀があって更に二段の平地がある。西側は三条の土居と二条の空堀があってその間は平地となっている。南北の両面は断崖で各々一条の空堀がある(上水内郡誌)。南北朝時代の正平六年(一三五一)、信州の各地で足利尊氏党と直義党とが争ったが、一二月一〇日、小県(ちいさがた)郡夜山(現小県郡東部(とうぶ)町和(かのう))の合戦に、尊氏党の武田弥六文元が「自野尻城馳参之処」(「武田按擦房乗信□(子)息弥六文元軍忠之事」古文書)とあるのが初見である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by