野田城跡(読み)のだじようあと

日本歴史地名大系 「野田城跡」の解説

野田城跡
のだじようあと

[現在地名]新城市豊島 本城

豊川の右岸河岸段丘の突端にある。根古屋ねごや城ともいう。東北はすぎ川を利用して桑淵とし、西南は竜淵を掘り、北西から三の丸・二の丸・本丸と土塁を巡らし、本丸の南には南曲輪を置き、周辺に侍屋敷が配置されている。永正五年(一五〇八)当地方にあった富永氏の後を継いだ田峯だみね(現北設楽郡設楽町)城主菅沼定忠の子新八郎定則の築城という。天文一三年(一五四四)一二月、連歌師孤竹斎宗牧が当城を訪れ、その著「東国紀行」に、

<資料は省略されています>

とあって当城の様子がしのばれる。

野田城跡
のだじようあと

福島玉川たまがわにあった城。この地は淀川・中津川(野里川)が大阪湾に注ぐ河口高台に位置する。江戸時代には「城ノ内」「弓場」などの地名があって(摂津名所図会大成など)、城跡の名残をうかがうことができるが、遺構を明示するものは現存しない。

享禄四年(一五三一)に細川晴元・三好元長の連合軍と細川高国・浦上村宗の連合軍が西摂を舞台に激しい戦争を展開した。「細川両家記」は、その年三月に浦上村宗が「野田福島に陣取也、その勢二万余騎」と記し、六月末までここを陣地として抗戦したが敗北し、野里のざと川は五千余人の死体で埋まったとのべている。

野田城跡
のだじようあと

[現在地名]南国市上野田

築城年代は不明だが城主の野田氏は長宗我部氏七代の兼光の弟俊吉を祖とするという。南北朝期には長宗我部氏・広井氏・吉田氏らは北朝方で、野田氏も参加したと考えられる。長宗我部元親の時代は野田甚左衛門が城主であった。天正一六年(一五八八)の野田村地検帳には「野田城詰」に「主居北原孫右衛門 給」と記され、この城詰を中心として西二ノ塀・北二ノ塀・東二ノ塀など一六筆の「城中」が列記される。そのうち「西キト前卅代地」に「長宗右衛門大夫土居」「新衛門ゐる」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報