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野田城 のだじょう

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日本の城がわかる事典の解説

のだじょう【野田城】

愛知県新城(しんしろ)市にあった戦国時代の城。規模の小さな城で、東三河の国人の野田菅沼氏(田峯(だみね)城を本拠とした田峯野田氏の庶流)が築き居城としていた。武田信玄の晩年、武田氏の大軍の猛攻を1ヵ月にわたってしのいだ野田城の戦いの舞台になった城として知られる。1508年(永正5)、菅沼定則によって築城され、定則、定村、定盈の3代にわたって居城となった。松平清康(徳川家康の祖父)の死後、野田城の菅沼氏は多くの東三河の国人同様、駿河の今川氏に臣従した。しかし、桶狭間の戦いの翌年の1561年(永禄4)、城主の定盈は今川氏に離反し、今川氏から自立した松平元康(のちの徳川家康)についた。このため、今川勢に野田城を包囲され、開城退去することになった。その翌年、定盈は夜襲により城を奪回したが、城の損壊が激しく、大野田城(新城市)を修築して仮の本拠とした。その後、定盈は家康の遠江(とおとうみ)侵攻の先鋒として大きな功績をあげた。しかし、1571年(元亀2)以降、甲斐の武田氏による三河侵攻が本格化し、定盈は武田方の秋山信友をいったん退けたものの、降伏を拒んだために武田勢に攻められ大野田城を含む一帯を蹂躙されることになった。翌1572年(元亀3)に三方ヶ原の戦いで家康を破った武田信玄は翌年1月、再び野田を来襲した。このとき、定盈は500の将兵とともに防備の固いかつての居城の野田城に立て籠もり、1ヵ月にわたって武田勢3万の猛攻をしのいだ。この戦いは、野田城の戦いとよばれ、信玄がこの城攻めの最中、城中から聞こえる笛の音に聞き惚れていたところを鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの言い伝えがある。結局、定盈は野田城の水の手を断たれたために、城兵の生命の安全と引き替えに降伏・開城し、武田氏に連行されることになった。その後、定盈は徳川氏と武田氏との間で行われた人質交換で解放され、信玄の死後の1574年(天正2)に野田城を奪還して、再び城主として入城。1575年(天正3)の長篠の戦いに、酒井忠次麾下の将として参戦して戦功をあげている。1590年(天正18)、定盈は家康の関東移封に従って関東に下向した。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用して野田城を破却・廃城とした。現在、城跡は雑木林になっているが、土塁や空堀跡などの遺構が残っている。JR飯田線野田城駅から徒歩約15分。◇根古屋城、三河野田城ともよばれる。

出典|講談社
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