金春秋(読み)きんしゅんじゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金春秋」の意味・わかりやすい解説

金春秋
きんしゅんじゅう
(603―661)

新羅(しらぎ)第29代の王(『三国史記』)。654~661年在位。第25代真智王(しんちおう)の孫、伊(いさん)龍春の子。母は第26代真平王(しんぺいおう)の娘、天明夫人。妃は金庾信(きんゆしん)の妹、文明夫人。統一新羅王朝を樹立した第30代の文武王(ぶんぶおう)はその子にあたる。百済(くだら)との戦闘に疲弊した新羅は、隣国援兵を求め、642年には高句麗(こうくり)に、647年には日本に春秋を派遣したが、目的を達成できなかった。しかし、648年、唐に派遣された春秋は、巧みな外交を展開し、ついに660年、唐軍の助力を得て、宿敵百済を滅ぼした。死後、その功績を称えて、武烈(ぶれつ)の諡号(しごう)と太宗(たいそう)の廟号(びょうごう)を贈られ、太宗武烈王(ぶれつおう)と称された。王陵は慶州西岳洞にあり、碑身は亡失したが、上下の螭首(ちしゅ)と亀趺(きふ)が残存し、螭首の中央には「太宗武烈大王之碑」と記す碑額がある。

[坂元義種]

『金富軾撰・井上秀雄他訳注『三国史記』全4巻(東洋文庫・平凡社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金春秋」の解説

金春秋
きんしゅんじゅう

603~661.6.-

新羅(しらぎ)の貴族,のち国王(在位654~661)。諡は太宗武烈(ぶれつ)王。真智王の孫,伊湌竜春の子。642年,百済(くだら)の攻撃をうけた際,高句麗に援兵を請うが失敗,647年(大化3)高向玄理(たかむこのげんり)らを送って来朝した。翌年唐に赴いて太宗に百済の征討を訴える。真徳王の没後,妻の兄金庾信(きんゆしん)ら貴族に推されて即位。660年には唐と連合して百済を滅ぼした。この間654年に理方府格を制定するなど法制や服制の唐風化を図る。新羅による朝鮮半島統一の基礎を築き,後世その治政は新羅中代の始まりとして評価される。慶州市西岳洞に陵がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金春秋」の解説

金春秋 こん-しゅんじゅう

603-661 新羅(しらぎ)(朝鮮)の第29代国王。在位654-661。
真平王25年生まれ。真徳女王につかえ,大化(たいか)3年(647)遣新羅使の高向玄理(たかむこの-くろまろ)とともに来日。翌年唐(とう)(中国)におもむいて同盟をむすぶ。太宗武烈王として即位後の660年唐の協力をえて百済(くだら)をほろぼし,朝鮮半島統一の基礎をかためた。武烈王8年6月死去。59歳。

金春秋 きん-しゅんじゅう

こん-しゅんじゅう

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改訂新版 世界大百科事典 「金春秋」の意味・わかりやすい解説

金春秋 (きんしゅんじゅう)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金春秋」の意味・わかりやすい解説

金春秋
きんしゅんじゅう

武烈王」のページをご覧ください。

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