日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木了二」の意味・わかりやすい解説
鈴木了二
すずきりょうじ
(1944― )
建築家。東京都生まれ。1968年(昭和43)早稲田大学理工学部建築学科卒業。1973年まで竹中工務店に勤務。同年の東京国際照明コンペ佳作作品から「物質試行」のシリーズを開始した。鈴木の作品は、建築、講演、写真、映画、家具、インスタレーションなど、ジャンルの違いに関係なく、番号をつけて「物質試行」と命名されている。1974年、早稲田大学大学院入学、1977年修士課程修了。同年、fromnow建築計画事務所設立。1983年、名称を鈴木了二建築計画事務所に変更。1997年(平成9)早稲田大学教授。
映像や美術にも造詣(ぞうけい)が深く、すぐれた評論を執筆し、映画や写真のほかインスタレーションも行い、横断的な活動を展開している。鈴木にとって、建築と建築以外の活動に上下関係はなく、等しく重要なものである。また「空間」を中心とした建築の方法論を疑い、「物質」を原点とする思考を追求している。初期の住宅作品は強い軸線をもつ。S邸(1976)は、斜面の敷地を量塊(りょうかい)としてとらえ、それを物質として感じさせるデザインの操作から着手した。T宅(1979)は、複数の素材を組み合わせながら、住宅の物質性を回復させる。玉川学園の住宅(1983)では、焦点のない空間をつくることで、素材の物質性を自立させた。杉並の住宅(1984)では、全体を貫く斜材や大きな円弧を挿入し、中心軸による構成の方法が変化する。
1980年代は、比較的抑制された表現により、印象的なストライプをめぐらせた成城ファースト(1982、東京都)、断片的な建築の要素を集積させた麻布EDGE(1987、東京都)、アルミパネルにおおわれたA商店ビル(1987、東京都)など都市型のビルや商業施設を手がけた。そして本駒込の住宅(1988)では、緊張した関係をはらみながら、ぎりぎりで普通であるようなデザインを試みた。
「断層建築」シリーズ(1985~1989)では、段ボールを積層した柱や壁のオブジェの情報を、写真、映画、ビデオなどの各メディアに変換した。建築家田窪恭治(1949― )、写真家安斎重男(1939―2020)らとの共同制作による「絶対現場」(1987、東京都)のプロジェクトは、地上げされた民家を途中まで解体し、その骨組みを補強しつつ強化ガラスの床を敷く。「標本建築」(1987)も、撤去寸前のバラックを撮影し、それをトレースし、レリーフ模型を制作してそのフロッタージュを行った。
1990年代以降は、「空間」に代わる「空隙(くうげき)」の概念を語りつつ、階段、柱列、トラスなど、特定の要素にこだわりながら、強度のある詩的な建築を実現している。国際花と緑の博覧会のフォリー(小さな建築物。1990、大阪府)は、リシツキーの作品を参照し、傾斜という建築的な構成へのオマージュとした。成城山耕雲寺(1991、東京都)では、鉄と木による2種類の立体格子を重ね合わせる。佐木島プロジェクト(1995、広島県。日本建築学会賞)は、海に向かうデッキと美しい光のスリットをもつ。熊本県立あしきた青少年の家(1998)は、大階段と柱列を効果的に導入している。
そのほかのおもな建築作品に内田アームズ(1979、東京都)、U邸プロジェクト(1981)、東久留米の住宅(1985)、佐木島の住宅(1991)、金刀比羅宮(ことひらぐう)プロジェクト(2004、香川県。日本芸術院賞)。著書に『非建築的考察』(1988)、『建築零(ぜろ)年』『建築家の住宅論』(ともに2001)などがある。
[五十嵐太郎]
『『非建築的考察』(1988・筑摩書房)』▽『『建築零年』(2001・筑摩書房)』▽『『建築家の住宅論』(2001・鹿島出版会)』▽『「特集 鈴木了二――物質/空隙」(『建築文化』1998年12月号・彰国社)』