鈴木文太郎(読み)すずきぶんたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鈴木文太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木文太郎
すずきぶんたろう
(1865―1921)

解剖学者。蘭方(らんぽう)医鈴木儀六の長男として金沢に生まれる。1888年(明治21)帝国大学医科大学を卒業、ただちに解剖学教室に入り、教授田口和美(かずよし)の助手となる。1893年第四高等中学校医学部(現、金沢大学医学部)教授に任ぜられ、1896~1899年ドイツ留学帰国後、新設された京都帝国大学医科大学の初代解剖学教授となる。日本の解剖学の黎明(れいめい)期にあたり、『局所解剖学』『解剖学術式手訣(しゅけつ)』『組織学汎論(はんろん)』など多くの書を著した。『解剖学名彙(めいい)』(1905)は国際解剖学用語に基づく日本最初の解剖学用語集である。また従来の洋書の翻訳からの脱皮を目ざして、日本人死体の解剖に基づく『人体系統解剖学』の著述を始めたが、完成をみずに倒れた。

[澤野啓一]

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改訂新版 世界大百科事典 「鈴木文太郎」の意味・わかりやすい解説

鈴木文太郎 (すずきぶんたろう)
生没年:1864-1921(元治1-大正10)

解剖学者。加賀国金沢に生まれる。1889年東京帝国大学医科大学を卒業し,大学院に進み解剖学を専攻,助手となる。ついで第四高等学校医学部(金沢)教授に転任。96年休職となり,解剖学研究のためドイツに留学。99年帰国,同年京都帝国大学医科大学創設にさいし,教授に聘せられ,解剖学を担当する。1901年医学博士。この間一時,京都市立絵画専門学校講師を兼ねる。著書に《解剖学名彙》《人体系統解剖学》がある。
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朝日日本歴史人物事典 「鈴木文太郎」の解説

鈴木文太郎

没年:大正10.1.9(1921)
生年:元治1.12.3(1864.12.31)
明治大正期の解剖学者。金沢生まれ。明治21(1888)年,帝大医科大を卒業,大学院に進み解剖学を専攻。26年,第四高等学校教授。29年,文部省留学生としてドイツに留学し解剖学を研究。32年に帰国,同年新設された京都帝大医科大教授となり,解剖学講座を担当。34年医学博士の学位を受ける。わが国における解剖学の初期に当たって『局所解剖学』『解剖学術式手訣』などを著した。また,ドイツ留学中に習得した彫刻および石膏術から,人体描写についての『美術解剖学』(共著)も著し,美術解剖学の基礎を築いた。このほか形質人類学の研究を行うなど,多彩な活動を残す。

(高安伸子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鈴木文太郎」の解説

鈴木文太郎 すずき-ぶんたろう

1864-1921 明治-大正時代の解剖学者。
元治(げんじ)元年12月3日生まれ。第四高等中学校の解剖学教授となり,ドイツ留学をへて,明治32年京都帝大医科大学の初代解剖学教授となる。著作の「解剖学名彙(めいい)」はわが国の解剖学用語の基礎をなすもの。大正10年1月9日死去。58歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。

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