1946年3月5日、ウィンストン・チャーチルがアメリカ訪問中、ミズーリ州フルトンで行った演説で、ソ連の秘密主義を非難するため用いたことば。この演説でチャーチルは「シュチェチンからトリエステまで“鉄のカーテン”が下ろされている」と述べ、ソ連が支配する地域では、ソ連が無限に権力を拡大しており、この動きを制するためには圧倒的な武力が必要であると述べて、第二次世界大戦後の「冷戦」を告げる有名なことばとなった。チャーチルはこの演説以前にも書簡のなかでこのことばを用いている。なお、このことばは、ナチス・ドイツ宣伝相ゲッベルスがドイツ敗戦直前に書いた論文のなかで用いたのが最初だといわれている。
[藤村瞬一]
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イギリスの首相チャーチルが1946年3月,アメリカのミズーリ州フルトンで,ソ連が「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステ」まで「鉄のカーテン」を降ろしたと非難,米英協力を訴えた。冷戦の開始を告げる重要な演説であった。
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…これは,偉大な戦時指導者としてのチャーチル個人の資質によりも,労働党の社会政策に戦後再建の期待をかけた国民感情の表れと見られる。この年すでに〈鉄のカーテンIron Curtain〉という言葉でソ連への警戒心を明らかにした彼は,翌年野党党首としてアメリカのフルトンで演説し,共産主義勢力に対抗する英米協力の必要を力説,一方スイスにおいては〈ヨーロッパ統合〉を提唱した。51年には再び政権に就き,53年エリザベス2世の戴冠式にあたりガーター勲章を授けられた。…
…1946年2月スターリンが両体制の対立と戦争の不可避を説いた演説を行った直後,アメリカは,当時駐ソ米代理大使であったG.F.ケナンからソ連の対外膨張を分析した〈長文電報〉をうけとり,これらを契機として新たな対ソ方針の確定と国内での準備が進められていくことになった。チャーチルの〈鉄のカーテン(バルト海のシュチェチンからアドリア海のトリエステにいたる線をいう)〉演説)をまじえて,ソ連との対立の不可避性が強調され,対ソ強硬姿勢が確立されてゆき,核の管理に関してもアメリカの核独占を維持する方向が出されていった。このような流れにそって,政策を最終的に確立したのが,47年3月のトルーマン・ドクトリンであった。…
※「鉄のカーテン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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