鉢形城跡(読み)はちがたじようあと

日本歴史地名大系 「鉢形城跡」の解説

鉢形城跡
はちがたじようあと

[現在地名]寄居町鉢形

荒川が秩父山地を抜け出た荒川扇状地の扇頂部、荒川右岸の河岸段丘上に築城されていた。段丘崖は岩肌を露出し、比高三〇メートルの急崖をなす。南側は段丘を深く浸食して北流する深沢ふかざわ川によって守られる天然の要害で、同川が内郭と外郭を分けている。平山城で、北部の主要な郭部分は国指定史跡。平安中期以降、平将門・畠山重忠らが砦として利用したという伝承もあるが(風土記稿)、室町後期には山内上杉氏の城で、家臣の長尾氏が管理していた。享徳の乱の末期、文明八年(一四七六)長尾景春は関東管領山内上杉顕定に反し、五十子いかつこ(現本庄市)を離れて鉢形城に入った。翌九年一月、景春は鉢形城を出て五十子陣を襲撃した(長尾景春の乱)。このため古河公方足利成氏に対抗するための五十子陣は崩壊し、同月一八日上杉顕定らは上野国に退いた。景春は鉢形城を拠点に各地に出陣したが、同一〇年七月一七日扇谷上杉定正と太田道灌は鉢形と成田なりた(現熊谷市)の間に出陣。同年春の足利成氏と上杉顕定の講和を受け、七月一八日に定正と道灌は景春の鉢形城を攻略、城には上杉顕定が入った(同一二年一一月二八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書、「松陰私語」など)。同一八年七月二六日、上杉定正は上杉顕定の讒言などを受けて太田道灌を相模糟谷かすや(現神奈川県伊勢原市)内の糟谷館で暗殺するが、その際顕定は鉢形城から高見たかみ(現小川町)へ加勢を送ったという(北条記)。その後、山内・扇谷両上杉氏が対立した長享の乱では、上杉顕定は鉢形城を武蔵における拠点として河越城の上杉定正と戦った。乱中の長享二年(一四八八)九月二六日、万里集九は須賀谷すがや(現嵐山町)から鉢形城に入り、翌二七日に上野国に向かった。集九が鉢形城を「鉢形城壁鳥難窺、地軸来万仞欹、三四渡河臨上野、民廬大半棘大籬」と詠じたのはこのときのことである(梅花無尽蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鉢形城跡」の解説

はちがたじょうあと【鉢形城跡】


埼玉県大里郡寄居(よりい)町鉢形にある城跡。蛇行する荒川の切り立った崖と支流深沢川が刻む谷に挟まれた天然の要害にある。南西側の平坦面に大手、外曲輪(くるわ)、三の曲輪(三の丸)の3つの曲輪を配し、北東側に向かって二の曲輪(二の丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪が連なっている。本丸・二の丸・三の丸などには土塁と堀があり、北西側は荒川の断崖に面している。1476年(文明8)関東管領(かんれい)山内上杉氏の家臣である長尾景春(かげはる)によって築城されたのが始まりといわれ、戦乱ののち、1564年(永禄7)に後北条氏の氏邦(うじくに)が入城した。氏邦は城の大改修を行い、上野(こうずけ)支配の拠点として現在のような曲輪や堀をもつ広大な城に拡張され、その後も各地の戦国大名の攻防の場となった。1590年(天正18)の豊臣秀吉小田原攻めのとき、城は前田利家をはじめとする3万5000人ともいわれる連合軍に囲まれ、氏邦軍3500人が抗戦したが、1ヵ月に及ぶ籠城戦のすえ開城した。1932年(昭和7)、関東地方の戦国時代の状況を示す遺構として、国の史跡に指定された。現在は鉢形城公園として整備され、園内の鉢形城歴史館で往時の姿が紹介されている。東武東上線ほか寄居駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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